窓の中のWILL



―Fifth World―

Chapter:66 「僕はいい友達をもちました」

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 いつもならこの時間、姉の旭は仕事に出ているはずだった。なのにその旭が景の目の前に現れた、という事実は、景の動揺をことさら誘うに充分なものだった。
「とく江さんから聞きましたよ。元気がないとか」
「姉様……お仕事は……」
「半休を取りました。やらなければならないことがあったもので」
景は旭の柔らかな笑顔を見ていて、果てしなく、やるせなくなった。そして、自分の心のどこかが、堰切れた。
「姉様、姉様っ……!」
景はそう言うと、たぶん生まれて初めて、自分の姉に、すがった。
「お話しなさい。なにがあったのです」
「僕は……僕にはもう、解りません……」
旭は景の背中をぽんぽんと叩いた。いかに姉弟といっても、高校生の景はすでに、成長の止まった二十六歳の旭よりも、身長が十センチばかり高かったが、景は子供に戻ったように、旭の手の温かさに身を任せていた。
 旭はその光景を遠くから心配そうに見つめるとく江に、目で合図して、自分の分の紅茶を持ってこさせた。
「お茶でございます」
「ありがとう。しばらく二人にしておいてくださいね」
「ええ、承知しております」
とく江はそう言って、景の分のトレイも持ってきた。
 ここは旭の部屋である。ブルーとモスグリーンを基調とした景の部屋に対して、モノトーンを基調にした、落ち着いた部屋であった。
「景さん。もしかして、今朝の……お父様とお母様のことで、悩んでいるのですか?」
旭がそう切り出した時、景は自分の心臓が一際高く跳ね上がるのを感じた。景は自分の胸をつい、と押さえると、
「……はい」
と、つぶやくように答えた。
「やっぱり」
旭は景を見ないようにしてそうつぶやくと、ふうと息を吐いた。
「姉様は、そんなことを考えたことはないのですか。父様は母様を大事に思っていないのではないか、おばあ様は母様をなぜ虐げるのか……! 僕には解らないんです、僕には……もう、父様と母様が結婚したという事実そのものが解らなくなりました。あの二人の間には愛さえなかったのではないかと……」
「それは違います」
旭は自らの紅茶に少し、口をつけて、念入りに、もう一度、言った。
「それは違いますよ、景さん。あの二人はまがりなりにも夫婦です。表に出すことはなくても、心から愛し合っていますよ」
「そんな……」
「景さんは、男女の愛が目に見える形だけだと思っていますか?」
「いえ、そんなことはないと思っています。だけど、父様と母様の場合は、裏に愛があるなんて思えないんです。父様はおばあ様の言うなりではないですか! 今朝だってそうです、本当に父様が母様を想っているのなら、母様をいたわる言葉のひとつもかけるのが夫というものではないですか? 違いますか!?」
「……景さんは、昔のわたしのようですね」
「え……」
「昔、わたしもそう思っていましたよ。本当に人を好きになるまでは。だけど、誰かを好きになると、解るものですね。言葉にしなくても浮かび上がる想いがあることが」
景は膝の上で、拳を握りしめた。
「嘘だ、嘘です! 姉様がお父様のもちかけるお見合いを断るのも、結婚しようとしないのも、父様と母様を見ているからなのではないですか!? あんな不幸な結婚をするぐらいならと!」
景はこんなにも感情的な発言をする自分に、心のどこかで少し驚いていた。誰かに今ある怒りをぶつけなければ、自分の中で物事の整理がつかなかった。それが旭であったことに、景は甚だ不本意だったが、実際他に怒りをまともにぶつけられるような人物を、景は旭以外に知らなかった。博希や五月に言えるようなことではない、彼はそう考えていたのである。
「違います。景さん、あなたは少し誤解していますね。わたしが結婚しないのは、わたしがかつて想った方以上の人物に、出会っていないからです」
「姉様が……想った……」
旭は机から、小さめのアルバムを一冊取り出した。
「わたしは二十歳の時に、大学を休学してロンドンに留学しました。覚えていますね?」
「ええ、僕がまだ小学生の時でした」
「その後、帰国してわたしは大学に復学しました。その時出会ったのが、この方です。わたしよりも四つ年下でした」
旭の指差したのは、サークルの集団写真。おとなしそうな旭の横で、笑っている、一際背の高い男性。
「……この人が……姉様のお相手ですか?」
旭はそれを聞いて、笑った。
「相手、というほどの方ではありませんよ。わたしの一方的な片想いでしたから」
「片想い!? でも、……」
「片想いするしかなかったのですよ。この方にはすでにお相手がいましたからね」
「そんな、……なのになぜ姉様は……」
旭は愛しそうに写真をなでた。
「情熱的で純粋な方だったのです。お相手は北海道に住んでいて、高校時代からずっと、遠距離の恋愛をしていたそうですよ。長い休みに北海道まで会いに行けるように、必死でアルバイトをなさっていました」
景にはその光景が目に浮かぶようだった。アルバイトでためた金で飛行機に乗り、恋人に会いに行く、輝いた瞳。
「それでもサークルにはマメに参加していました。公私の区別をきっちりつける、誠実な方でもありました」
旭は夢見るような瞳で語っていた。
「姉様が結婚なさらないのは……未だにその人の面影を追っているからですか……?」
「そうとも言うのかもしれませんね。というより、わたしはあの方以上に情熱と純粋さを持つ方に、まだ出会っていないのです。だから結婚はまだできません。お父様とお母様の関係を見ているからではけしてないのですよ」
景はそれで、問題が元に戻ってきたことに気がついた。
「姉様が結婚しない理由は解りました。ですがそれだけでは、父様と母様が愛し合っているという理由にはなりませんね、絶対に」
「ええ。――だから――景さんにもいつか解る日がくる、としか言えません。わたしもその方に惹かれて、初めて、解ったのですから。離れていても想いが通じ合う二人がいるように、近くにいて会話がなくても想いが通じている二人もいるものなのですよ」
「…………」
やっと、景は自分のカップに口をつけた。すでにハーブティーは冷たくなっていて、わずかな苦みが口中と喉をついた。それでも、景はカップの中身を飲み干した。
 一人で苦しんでいた時の禍々しさは、心の中から消えていた。
「ではおばあ様はなぜ母様を……」
「それだけはわたしにもなんとも言えません。おばあ様にしたら、頼りないようにも見えるお母様が腹立たしくて仕方ないのかもしれませんね……」
「それでは母様があまりに不憫です!」
旭はしかし、悲しそうに笑った。
「おばあ様にもそういうときがあった、とは考えられませんか?」
「え……?」
「おばあ様も、ひいおばあ様にそういう仕打ちを受けたことがあるのかもしれません。ひいおばあ様の生きていた時代はまだ四民平等のあおりを受けて間もない頃、あるいはこの浦場家には、まだ華族華やかなりし頃の意識が残っていた。そう考えてもおかしくはないでしょう?」
「それは……確かに……」
そうである。それは今でもそうであるとも言える。でなければ旭や自分が、友人を目の前にしてまで敬語を使い、礼儀正しく立ち居振る舞うことはなかったであろう。
「ひいおばあ様がおばあ様に華族であった頃のしきたりを押しつけてきつくあたったことがなかったとは言い切れません。嫌なしきたりが、嫌な形で引き継がれてしまったのですね。悲しいことです……」
旭は紅茶を飲み干した。景も残りのハーブティーに口をつけた。
「私が結婚しないのは、もしかしたら……おばあ様、ひいてはひいおばあ様……あるいは浦場家そのものに、少し反発しているのかもしれませんね」
そう言って、旭はくすりと笑う。景は目を丸くして旭を見た。こんなに豊かな表情をするひとだとは思わなかったのだ。自分にはまだ解らないことがいくつもある。この天才少年はしみじみとそう思った。
 それでも、気はうんと晴れていた。

 目で見る現実が欲しかったのではない。
 確認できる結末が欲しかったのではない。
 ただ誰かに。
 誰かに、そう言って欲しかったのだ。
 清一朗と円華は、心の奥底で愛し合っているのだと。

 自分で解っているだけではなくて。
 誰かに、確認したかった。
 自分の考えは間違いでないのかと――
 だから。

 それが今やっと解ったのだ。
 博希や五月の家と違って、景の家はある一種の特殊性をもって存在するものである。ただ、博希や五月がそれを気にしたことは、三人が友達同士になってからは今の今まで一度もない。
 それが景にとっては嬉しかったが、彼の心にはどこかでわだかまりがあった。博希の家。五月の家。見れば見るほど、自分の家とは違う。それは解っている。いやむしろ、ずいぶん小さな時から、その認識はあったはずなのである。それでも、納得しきれない自分が、どこかにいた。

 羨ましかったんですね、きっと。
 博希サンや五月サンのお家のように、
 父様と母様が対等でない僕の家を、きっと僕は心のどこかで――
 拒否して、疎んじていた。

「いつか――――」
旭を見ないようにして、真っ白な壁だけを見つめて、景は言った。
「え?」
「いつか、僕にも、父様と母様の心が解る日が、来るでしょうか」
「来ますよ。景さんにも、想うお相手ができれば、解ります」
「想う…………」
景がそうつぶやいた時、旭はいたずらっぽく、笑った。また、景の見たことのない顔だった。旭が片想いしていたという、あの男性。四つ下だというから、今は二十二歳か。……彼に、この表情を、旭は見せていたのだろうか……
「そういうお相手は、景さんにはいないのですか?」
「え!?」
いきなりそう聞かれて、景は慌てて旭を見た。一瞬、脳裏に、なぜか沙織の姿が浮かんだ。あわてて手でかき消す。
「……いませんよ、まだ。僕の魅力に気がつく方がなかなか現れてくださらないので」
もちろんおどけて言っているのである。しかし多分、旭にとっては、今まで堅かった弟が、こんな物言いをするようになったそのこと自体が嬉しかったとみえた。
「そう。残念ですね」
残念、と言う割には、笑っていたからである。
 旭はカップの乗せられたトレイを持ち上げた。ドアを少し開けてとく江を呼ぶと、持って行かせた。景は自分のトレイを、自分で持って行くつもりだったから、そこに残しておいた。
「少しは、落ち着きましたか?」
旭は微笑んでそう聞いた。景も少しはにかんで、
「……はい。ありがとうございました」
と答えた。本当に、気は軽くなっていた。そして、すぐにでも博希と五月に会って、なんでもいい、何かを話したいと思った。二人がまだコスポルーダに残っているのなら、ここに“ほころび”を作ってもいいとさえ思った。さすがに自分の部屋ではないしそれはまずいだろうが。
 景はともかく外に出る支度をするつもりで、トレイを持って立ち上がると、旭にペコリと頭を垂れた。
「本当にありがとうございました。姉様はやっぱり僕の姉様ですね」
「景さん」
「僕を迷いから助けてくれた。僕はもう迷いません」
景はそう言って、微笑んだ。もちろん旭も微笑み返した。
 ドアから出る瞬間、景は、あることに気がついた。
「そうだ、姉様……今日半休を取った理由を、僕はまだはっきりと聞いていませんでしたね。やらなければならないことがあったとか。お仕事でしたか? だとしたら邪魔をしてしまいましたか……」
言いかけた景の唇を、旭はそっと指で押さえた。
「今日、半休を取ったのは、景さん、あなたとお話するためですよ。言ったではないですか、いつかお話しましょうと」
「…………!」
景の脳裏に、今朝の風景が浮かんだ。あの時から旭は、自分の心の中を見抜いていたのである。
 旭の指が離れてから、景は苦笑して、言った。
「姉様には、隠し事できませんね」
本当を言えば、景は旭のみならず浦場家の人間全員に最もバカでかい隠し事をしている――それは無論ここ最近の『活動』のことである――のだが、それはさておくことにしよう。
「これからちょっと出てきます。夕飯までには帰れると思いますが」
「ええ、気をつけて」
景がこれからどうするつもりであるのかを知ってか知らずか、旭はそんな言葉をかけた。景は無言で笑ってうなずくと、部屋を出た。


「よかった、帰っていたのですね。とりあえずそこの公園で会いませんか?」
 景は博希に電話をかけた。博希はすでに家に帰っており、うだうだと時間を潰していたという。
「五月も帰ってるはずだぜ」
と、博希は言った。景はそれで、五月の家にも電話をかけ、五月にコンタクトをとって近所の公園で会うことにした。


 夏休みの公園は子供たちが多い。景の家の近くの公園はとくに、遊具がたくさんあり敷地も広く、親も連れだって遊びにくる。緑も多くてよいところだった。景の呼び出しに応じた博希と五月は、景の機嫌をうかがいつつも、公園の中のひとつのベンチに座った。
 博希と五月の姿を認めてまず、景は二人に頭を下げた。
「すみませんでした」
「え?」
「カーくん。どうしたの」
「僕らしくないことをしてしまって――オルデを目の前にして、僕は落ち着きをなくしていました。お二人に迷惑をかけてしまいましたね」
それを聞いて、博希と五月は顔を見合わせた。それから、博希は無言で、空いていたブランコに乗った。
「博希サン、まだ話が途中……」
「バカ言え。謝られるような理由なんかないから、聞くだけ無駄だよ」
「えっ」
五月がベンチの目の前のシーソーに腰かけた。
「カーくん、何も悪いコトしてないよ。なんで謝るの?」
言って、ニッコリ笑う。それだけで、景は胸がいっぱいになった。
「え……だって、博希サンも五月サンも、僕が早く帰ってしまって、ご迷惑だったのでは――それに、オルデの手の内に落ちてしまったのは僕の落ち度で、」
「景。俺らがそんなことで迷惑になんか思うと思ったか?」 
博希はそう言うと、見事なポーズでブランコから飛び下り、子供たちの拍手をさらった。五月はシーソーにちょこんと腰かけたまま、言った。
「ぼくたちが友達になってもうどれくらいたつと思うの? いまさら水くさいじゃないの」 
「五月サン……」
「俺たちだっていくら迷惑かけてるか解りゃしねぇよ。五月なんてどれだけさらわれてるか数えんのもイヤになったぜ俺は」
「ひどいなあヒロくん」
「事実だろ。アハハハハ」
博希は無邪気な笑顔で笑った。五月も笑った。
「博希サン……」
景はその笑顔を見て、なぜだかホッとした。否、『なぜだか』ではなく、はっきり、その理由は自分で解った。
「ありがとうございます」
「またそんなこと言う。ありがとうなんて言われる理由、ないぜ俺は!」
「ぼくだって、ないよ」
 それで、景はそれ以上のことを言うのを止めにした。

  僕が考えている以上に、博希サンも五月サンも……
  友達だと思ってくれていたんですね、僕のことを。

  ひとりではない。
  僕はひとりではない。

 涙がこぼれそうになった。
 しかし、懸命にこらえて、空を見た。
「どうした、景?」
「いえ。僕はいい友達をもちました」
「なぁにを今更解りきったことを」
エッヘンと胸を張る博希。それを見て、五月が「ふぅ」と首をすくめた。景がそれを見て苦笑する。
 元のスタンスが戻った。景はそう思って、少し、嬉しくなった。


「なぜ俺を呼んだ?」
 長めの前髪が揺れた。その冷たげな肌と同じく、冷たげな瞳が、黒い翼をじっと見つめていた。
「なぜ……か。理由が要るのか?」
「要るさ。俺の都市にまだ【伝説の勇士】は侵入していないはずだ」
「なるほど。誰から聞いた? ――デストダか」
冷たい瞳は嘲笑的なまなざしを翼に向けた。
「馬鹿を言え。あのような鳥ごときに……マリセルヴィネに聞いたのさ」
納得のため息がひとつ、もれる。デストダが聞いていたら恐らくは無茶苦茶に怒ったことであろう。
「そろそろ本気になるべきかと思ってな。リテアルフィが動けぬ今、残った幹部で一番の力を持つのはお前だけだ。潰せ――【伝説の勇士】を。少なくとも奴らがお前の都市に行くまでにはまだ時間がかかる」
「本気に……か。それは奴らを『殺し』ても構わない、ということか?」
「構わぬ。あの男も一向に動き出さぬ今、奴の言うことを聞く義理などない」
翼からわずかな微笑みがこぼれた。しかしそれは、極めて悪辣で残酷な微笑みだった。
「……俺が気紛れにできていることを忘れるな? 奴らと少しは――遊んでみなくてはつまらないからな」
「お前もか、クラヴィーリ」
「お互い様だ、レドルアビデ、……様」
革の上下が翻った。
「視察程度に行ってくるさ、アイルッシュへ。その先で【伝説の勇士】を殺してしまったとしても――それは俺の気紛れの結果、そうだろう?」
「違いない。いい報告を待っているぞ、クラヴィーリ」
クラヴィーリと呼ばれた青年は消えた。鮮やかなブルーの輝きが、わずかにそこに残った。
 レドルアビデは――黒い翼と赤い輝きをもつ、この独裁専制君主は――、自身と同じ、赤い輝きをもつ『花』のもとへ向かった。
「あと、少しだ」
花からわずかに伸びる薄いブルーの髪の毛が、さらりと揺れた。すでにその体はほとんどなく、『花』からそれと解るのは、わずかに残された髪の毛と、閉じられてもなお美しいと解る瞳と形のよい唇ののる、白い肌だけだった。
「あの男が動けば――もっと早かったかもしれぬが」

 仕方がない。
 今の段階では満足にコンタクトもとれぬ。
 では?

「俺が行くか……アイルッシュに」
またしても悪辣で残酷な微笑みがもれた。『花』が、震えた。


 そんな目論みがいくつも進行していることなど、とんと知るはずのないアイルッシュでは。
「わーい、ギッコンバッタン」
「五月、景のとこ行け。それで重さがつりあ……うワケねぇか、うーん」
「……帰りませんかそろそろ……お母様方の視線が痛いですよ」
博希と五月と景が、公園のシーソーで遊んでいた。

-To Be Continued-



  あぁ、元の調子に戻ってよかったなぁ、景。
  それにしても、また何かやらかす気かレドルアビデはっ……!
  ということは次は、アイルッシュでバトルか?
  気をつけろ、三人! クラヴィーリは本気だぞ、多分!
  次回、Chapter:67 「俺はゴタクは嫌いでね……!」
  えっ? 景が……参戦していない!? どうした!?

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