しあわせの育てかた

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 彼にとって、その年度はのっけから不幸が満載のスペシャルイヤーだった。
 冗談半分に「遅れてきたか、それともフライング気味の厄年か」そうふちふちと言えたのもせいぜい最初の一週間ほどで、あとはとことん自分の生まれを呪うか前世を呪うか、はたまた今生で何かやらかしたか、そんなことばかりに思いを巡らせるのであった。
 大学を卒業して、そこそこの企業に就職。学生時代にできた彼女とも悪くない仲。配置された営業部では目立たぬ程度に営業成績をあげ、仕事にもすっかり慣れ、そろそろ彼女との結婚を考え……ようと思っていた、矢先のことだった。

「幸野トオル。総務部庶務課への異動を命ずる」

 相手が社長でなければ、ハァ? と返していただろう。営業部の人間がなぜ総務部へ? 仕事をするうえで、そりゃあ異動はつきものかもしれないが……トオルは、総務部、ことに庶務課にはいい印象を抱いていなかった。
 総務部なんて、ていのいい雑用じゃないか。以前、同期との会話で――もう、何がきっかけだったかも忘れてしまったが――そんなことを口走ったとき、運悪く、……もしかしたら、フライング厄年はそのときから始まっていたのかもしれない、背後に、その言葉を聞かせてはいけない人物がいた。
「悪かったわね、ていのいい雑用だっていなきゃ困るんだけど? わかる?」
「……え」
 総務部庶務課のヌシ。営業部にもその噂は伝わっていた。なかなかの美貌を持っているくせに、性格も口調もドギツイせいで、いい歳をして嫁の貰い手もなく、上司すら手に余るとため息をつく、のに、仕事は大変よくできるため扱いづらいことこの上ない、総務部庶務課主任――斉木ノゾミ。
「斉木……さん」
「あらよくご存じだこと。すこしもうれしくはないけどね」
「いや、あの……その」
「あんた営業部の若手ね。いつか後悔するわよ、ていのいい雑用とかぬかしたのを」
 その後悔がいま回ってきたというわけだった。
 文字通り、トオルは異動直後から雑用ばかりさせられた。ノゾミが直接指導係についたこともあって、毎日が火事現場のように大騒ぎであった。休日夜間に電話がかかってくることもざらで、そしてその大半はノゾミからの呼び出しであった。このひといつ寝てんだ。トオルはそう思うこともある。
 そして呼び出しのツケは、ついにトオルの生活にまで及んだ。
「ごめんトオル、やっぱ、わたし、無理」
 結婚まで考えていた彼女からも手ひどくフラれた。彼女としてはバリバリ営業職をやっているトオルが――裏を返せば、【超稼げる】トオルが――好きだったのだそうで、総務部に異動になった瞬間、興味は煙のように消え失せていったのだという。
「残していったものはテキトーに処分しといて。いままで楽しかった。じゃね」
こういうとき女は男よりずっとドライだというが、それにしてもあんまりじゃないか、と、しばらくトオルは立ち直れなかった。ひどく女々しい話だろうが、部屋のどこを見ても、何を見ても、彼女のことを思い出して、落ち込んだ。
 三十歳も目の前に来て、いまさらどこに出逢いが転がっているだろう。


 トオルは久々にとれた休日、部屋着に着替えもしないで布団に寝転がって惰眠をむさぼっていた。なーんにもしないで一日寝ていることが楽しい。……そんな日はめったにないわけだが……
 惰眠中、午後一時を回ったときだった。彼のスマホがけたたましく着信を伝えた。
「……えー……」
画面を見る。庶務課の固定電話からの着信だった。かけている相手は……思い出すまでもなくひとりしかいないだろう。取りたくはなかったが、ここで取らなければ以後二分に一回は間違いなく着メロに悩まされるはずだ。マナーモードにするとか、そもそも電源をぶち切るとか、そういう選択肢はなかった。
 ぬるぬると、トオルは画面をたたいた。
「はい、お疲れさまです、幸野です……」
「幸野! あんた今日中に報告する書類どうしたの」
予想は嫌な形で当たった。キンと耳の奥に響く声が、スマホの向こうから聞こえた。
「書類? は? 俺昨日全部仕上げて帰りましたけど……?」
「足りないんだけど。一枚」
「一枚足りない!? え、だって俺、揃えて机の上に置いて、」
「揃えて机のどこに置いたのよ。どの書類がソレなのよ!」
 そう言われてトオルは己が机の状況を思い出す。きのうやっと報告書類を終わらせたまではよかったが――ほかの書類とまとめてそろえたのだ。無論自分ならわかるが、他人にそれを捜せというには割と酷な状況だった。まして相手がノゾミでは。
「いまから出勤なさい。どれがその書類なのか、あんたにならわかるでしょ」
「え? いまから? 冗談でしょ主任」
「私が冗談なんか言ったこと、あったかしら。それとも私にこの膨大な山の中からたった一枚の書類を捜せってあんたはそう言うの?」
「いやそんなこと言われても、俺今日休みですよ、しゅに……」
電話は唐突に切れた。電話の向こうもキレていたらしかった。
 それはそうだ、と、冷静な頭でトオルは思う。だがせっかくの休日に出勤するのはとても気が乗らなかった。電話の向こうが明らかにイライラしていると思うと。
「……マジか。これから出て来いってか、会社に!」
 だが出なければ出なかったで翌日の仕打ちが怖い。トオルは昨夜脱ぎ捨てた上着を着ると、のろのろ鞄の取っ手を握った。そろそろ辞表の書き方をググっておいたほうがいいかもしれない、と、彼はそう思っていた。
 アパートの駐車場に降りてからも、車がこのままエンストしちまえばいいと思ったが、無情にも、彼の車はとても軽快にタイヤを回すのだった。


 できるだけゆっくりと車を運転し、できるだけゆっくりと会社へ入り、総務部へたどり着いたトオルは、深く深く深呼吸した。心の準備はなんとかできたつもりであった。だからできるだけ、声だけでも、虚勢を張った。
「お疲れさまですっ! 主任!」
 その言葉を待っていたとしか思えないほど、ノゾミから放たれた一言は尖りを極めていた。
「遅いっ!」
「はぁ!?」
 できるだけゆっくりと会社に向かったのはほかならぬ自分である。否定はしないしするつもりもなかったが――
「会社に来るのにどんだけ時間かけてんのよ。足りなかった書類、見つけたわよ!」
これはあまりといえばあまりな仕打ちであった。トオルはおおいに反論してみた。
「じゃ俺は何のために出てきたんです!? 途中で連絡くれてもよかったじゃないですか!」
「ついでだからやりかけの仕事片づけていきなさい。どうせ明日じゃまた先延ばしになるからね、あんたみたいなのは!」
 ついでとはまた非情な言い方だった。確かにやりかけの仕事はまだいくつか残っている。しかし、「でも俺今日は休」みですよ、と言いかけたトオルに、完全にかぶせる形でノゾミは言い放った。
「創立記念日のお土産は手配したの? 式典は明後日よ?」
 会社の創立記念日には式典が開かれて、来賓の方々に些少ながらお土産をお渡しすることになっている。それくらいはトオルだって知っていたし、なにより、自分が担当になって、いや、ならされていた。新人がまずやる仕事なのだそうだった。
「……まだです……」
「だと思ったわ。はい、決まり。どうせ毎年花の種とかそういう小さいの配ってるんだから、早く決めてしまいなさいよ」
「去年は何を?」
 完全にパクり倒すつもりでトオルは聞いた。もらう土産が前年と同じことを指摘してくる来賓がいるとも思えなかったし、毎年土産が同じでも逆にこれは恒例になってよいのではないか。営業で培ったすこしの知識が働いた結果だった。
「苗だったわね、パンジーか何かの。でも残念ね、去年発注したお店は先月潰れたの。今年のお店はあんたに任すわ」
「潰れた」
「頼んだわよ、新人」
 言いながら、ノゾミは、トオルに電話帳を渡す。
「仕事済んだら帰っていいわ。明日にはお土産到着してないと、ただじゃおかないからね?」
「ただじゃ……って……そんな」
 無茶苦茶な。今日の明日でどこの店が商品を調達してくれるというのだろう。そう言いかけたトオルの言葉を、ノゾミは無理矢理に飲み込ませた。
「なんか文句あんの! ズルズル発注を先延ばしにしたのは誰? 私?」
「……俺です」
「よくできました。じゃ、私仕事に戻るから」
 嫌味たっぷりの言い方ではあったが、電話帳を抱えたまま絶望しかけるトオルの耳に「休日出勤代はきっちりつけておくわ」と小さく聞こえたのは、ノゾミなりの真面目さだったのかもしれない。あるいはそれとはまた別の感情があった可能性もあるが、トオルは取り残されたまま座り込んで唸った。
「……いやそりゃ悪いの俺だけどさあ! 休みに呼び出すことねーんじゃねーの! そういうのは普通昨日のうちに言ったりするもんじゃねーのかよ、わざわざ昼過ぎに電話するかよ! どっか出かけてたら来いって言ったかよ!」
 誰も聞いていないことをいいことに、トオルはひとしきり悪態をついてみた。だが結局会社に出てきたことに変わりはないわけで、かつ、真偽の是非はともかく休日出勤代までつけると言われてしまっては、やることをやってから帰るしかなかった。
「花の苗なあ……」
 電話帳をめくりながら、トオルはぼんやりうめいた。そもそもここは乾物の卸会社である。来賓に鰹節の一本も配るならともかく、なぜ花苗なのか。安いからか。選択肢が少ないからか。
「つまり主任も結構いーかげんに決めてるってことだよな」
本人が聞いていないのをいいことに、トオルはさらりと言ってのけ、電話帳で花屋を探した。もうこの際苗でもなんでもいいから早く決めてしまえば片がつく。
「? 花屋ってないな……ああ、【園芸店】でいいのか……」
思ったよりも、【園芸店】の掲載は少なかった。トオルは自分のシャープペンを出すと、目をつぶってその上をうろうろしてみた。見当もつかなければインスピレーションに頼ってみるに限る。
 とん、と、いい音がして、シャープペンの先は一件の電話番号で止まった。
「ここだ! 【種田たねもの屋】。たねものってことはアレだな、今年は苗じゃなくて種で決まりだな。えー、番号は……と……」
 スマホからコール音が一回して、電話の向こうはにぎやかな声を上げた。
『はい! 種田たねもの屋ですぅ!』
「うわ、うるさっ。……あ、あー、えと、花の種を注文したいんですけど、明日までに五十袋とか、お願いできますか?」
 予備の袋を頼んでもよかったのではないかと、そんな考えが一瞬だけトオルの脳裏をかすめたが、無駄なことはするなと怒られそうな気がしてやめた。ここは来賓の人数ちょっきり五十を用意したほうがよさそうだ。
 たねもの屋はにぎやかな声のまま応対を続けた。どうもそれがポリシーであるらしかった。
『五十、ですか? お好みの花とかあります? 種類問わずとりまぜてよろしいのなら、一袋二十円で明日までにそろえられますが』
 この際、種類がどうとかは関係ない。明日までに五十の土産がそろうかどうかと
いうほうが、トオルにとっては余程重要だった。しかも一袋二十円。熨斗紙なんかはこちらでどうとでもなるとして、それは破格の安さだとトオルは思った。
「あー、いいですよそれで。そろうなら。何が咲くか分かんないほうが面白そうだ」
『じゃ真っ白な封筒でお届けしましょう。お届けはどちらへ?』
「あぁはい、……」
 トオルは会社名と住所、納品書と請求書を同封してもらうことなどをそつなく伝える。実に短いながらも休日出勤がこれで終わったことになるが、呼び出された以上、ここで帰ってしまうのは若干癪に思えた。しかも休日出勤代をもらえるとあっては。そこで彼はノゾミに、なんとも丁寧に報告を終えた。
「花の種ね。課長には私から報告しておくわ」
「あの」
「まだ何か?」
「仕事、残りの……」
「急ぎの仕事はそれくらいでしょう。まさか夕方まで残って仕事片づけたいの?」
そう言われてしまえば確かに残る理由はこれ以上なかった。
「言っとくけど、休日出勤代は無駄遣いしないわよ」
それを言われると言葉をなくす。トオルはおとなしく帰ることにした。


 翌日、たねもの屋は何とも珍妙な格好で納品に来た。
「どーもー! 種田たねもの屋ですー! このたびはご注文、誠にありがとうございますー!」
いま遊園地で風船配りをしてきたところですと言ってもおかしくないその格好は、明らかに周囲から浮いていた。後で聞いた話によると、一階ロビーの受付係はたねもの屋がエレベーターに消えた瞬間、大爆笑したという。
「え、あんた、たねもの屋さん……?」
「そうですよ。見てのとおりのたねもの屋ですよ。はい、花の種、五十袋です」
 トオルは「見てわかんないから聞いてるんだけどな」と苦笑しつつ、たねもの屋が差し出した箱を受け取った。この中に種が五十袋入っているのだろう。あとたぶん、頼んでおいた納品書と請求書も。
「どうも……」
「お支払いは来月末までにお願いします。じゃっ!」
 たねもの屋はそう言いながら陽気に総務部を出て行った。ノゾミが一仕事終えてトオルのもとに来たのはその三十分あとだったので、ふたりは会わずじまいであった。もしこのときノゾミがたねもの屋と会っていたなら、またきっとひと悶着あったろうと思うと、トオルはそれだけで安堵した。
「幸野。種、届いたの? 数は確認した?」
「あ、届きました。確認はまだです」
「早く確認しなさいよ、もし足りなかったら大変じゃないの」
それもそうだとトオルは数を数え始める。ノゾミも責任があってか、付き添った。
「四十八、四十九……あれ?」
「幸野?」
「ちょ、も一回……」
「……四十九、五十、……」
 二回数えて、さすがにふたりとも異変に気がついた。
「……種、多いじゃない。お客さまは五十人でしょ」
種の袋は五十一あった。トオルは箱の中の納品書と請求書を見たが、そこには五十袋ぶんの記述しかなかった。
「予備じゃないんですか?」
 たねもの屋相手に予備の話は全くしていないくせに、トオルはそんなことを言った。ノゾミは請求書をひらひらさせながら、いかにも困った風につぶやく。
「……まあ結果的にこっちが損したことにはなってないけど……」
袋が余ったところで処理に困るのよね、とノゾミは言って、トオルにたねもの屋への連絡を命じた。
 またあの陽気な声を聞くのかと思うとトオルはほんのすこし気が滅入ったが、上司命令では仕方がない。トオルはスマホを取り出した。
『はい! 種田たねもの屋ですぅ!』
「あ、」
 やはりすぐにたねもの屋は電話に出たので、トオルが言葉を継ごうとしたら、それより早くたねもの屋が言葉を継いだ。ただし正確には録音のテープが。
『ただいま商品の買いつけのため、ムーミンの里フィンランドに出かけてまーす』
「え?」
 さっき会社を出たばかりなのに? それとも配達のあとすぐに空港に向かうつもりだったのか? トオルの頭はグルグルしながら、留守番電話とおぼしきそのメッセージを黙って聞いていた。
『そのあとノルウェーとデンマークとスウェーデンをまわってきまーす。帰りは来週になりまーす。その間お店お休みでーす。行ってきまーす。エヘヘー。種田ミヤコでしたー』
 メッセージさえ残させてもらえず、電話は切れた。たねもの屋のフルネームはこの際大変どうでもよかったが、トオルの耳にはそこまで届いたかどうかもわからない。かくしてたねもの屋、もとい、ミヤコには連絡が取れないことがこの時点で判明してしまった。トオルはスマホを切りながらノゾミのほうを向いた。
「……だそうです」
「いや、だそうですじゃなくて! 何。留守なの?」
「はあ、買いつけとかで。連絡、取れないっぽいです」
「……そう。仕方ないわね……。……いいわ。幸野、あんた、持って帰って、これ」
 袋をひとつつまみ上げて、ノゾミはトオルの目の前にずいと出した。
「え、俺が!?」
「発注したのはあんたでしょ。責任もって持って帰んなさい。それにね、あんたはこういうの育てて、もうすこし情緒的っていうか、空気読むっていうか、ひとの心のわかる社会人になんなきゃだめよ」
 俺の何を知っててこのひとはそう言ってるんだ。トオルは反論したい気持ちでいっぱいだったし、草花なんて小学生のときに朝顔を枯らしてクロッカスを腐らせて以来育てたこともなかったから、この種がまともに育つ自信はまったくなかった。
「俺、花とか育てたことないんですけど!」
「だから育ててみろって言ってんの」
「土とか栄養とかどうすりゃいいんですか?」
「あんたんちの近所にホームセンターはないの? いまどき土も肥料も簡単に買えるのよ。はい決定。プレゼントフォーユー」
 すべて見事に論破され、手の中に種の袋を押しこまれて、トオルは大混乱していた。この流れでなぜそういうことになるのか。一応仕事が忙しい身の上、絶対に枯らしてしまうとトオルは危惧したが、ほかの総務部職員も、昔の営業仲間も、受付係や掃除のおばちゃんに至るまで、誰もトオルから種をもらってはくれなかった。


 創立記念日の式典は無事に終わった。途中でノゾミが「種が足りない」と騒ぎ出すかもしれないと思い、トオルはスーツの内ポケットに種の袋を忍ばせていたが、残念ながら前日に数えたとおり箱の中の種はきっちり来賓全員に渡って、足りないどころか余りさえ出なかった。
 こりゃ本当に持って帰って埋めるなりするしかない。あれだけ強引に押しつけられた割には、この種をそのままごみ箱に放り込んでしまう気には、トオルにはとてもなれなかった。彼は仕事の帰り道にとりあえずホームセンターでほんのすこしの肥料と土を買い求め、アパートに帰った。
 一番肝心なものを買い忘れたことに気がついたのは、土の袋を開けたときだった。
「植木鉢買ってねえわ」
 だが今更ホームセンターに戻るのはとても面倒臭かった。疲れてもいたし、とにかく何か代わりになるものがないかと思ったトオルは、食器棚に向かった。見当はついている。もう使うことのない茶碗。トオルを冷たくあしらった彼女が残していったものだった。ここにあっても仕方ない。というより、いままで残していたのがなんとも未練がましい。トオルは茶碗に土と肥料を詰めると、袋の中に入っていた種を出した。
「何が生えるんだろうな、これ」
昨日、一応ネットで調べてみたが、どうにもよくわからない。生えてくるのが花なのかどうかすら。あのたねもの屋がよこしたものだから、南米原産ですとかアフリカの奥地にしか生えないスペシャルレアものですとか言われてもトオルはたぶん信じる。
「とりあえず埋めてみよう。あと要るのはなんだっけ、水か?」
種を埋めて、トオルは水道水をすこし振りかけた。土が湿る程度でいいとネットにはあったから、これで様子を見てみるしかない。
「まあ枯れなきゃいいけど……どのくらいで芽ェ出るのかなァ……」
茶碗を多方向から見てみるが、当然変化はない。
 とにかくやることはやったのだから寝てしまえ。トオルはテーブルの上に茶碗を置くと、布団に入って、数分後にはいい寝息を立てはじめるのであった。


 ふかふかと柔らかく布団が揺れる。夢を見ている? だがそういえば鳥の鳴き声が聞こえる。
「もう朝か……?」
布団の中でつぶやきながら、トオルはうーんとくぐもった声を出した。まだ出社までには時間があるはずだ。もうすこし寝ていたい。
 しかし、布団が揺れるだけではなかった。何かが自分の体の上に馬乗りになるのを、トオルは感じた。まだなんとなく寝ぼけていたトオルは、横にごろごろと体を揺らしながら、体の上のものに――それがなんなのか、当然わからないままに――拒否反応を示してみた。
「やめろよー……眠たい……」
瞬間、キャハッという、空気のようなうれしい叫び声を、トオルは確かに聞いた。その声に疑問を持つ間もなくトオルは飛び起きる。ほっぺたのあたりを割と遠慮なくぺちんぺちんと叩かれたからだった。
「やめろって!」
トオルが飛び起きたと同時に、その場の空気は凍りついた。トオルはこの状況が全く呑み込めなかったし、トオルが聞いた声の主は、突然大きな声を上げられたことにびっくりし、思わずその場から飛びのいて固まったからだった。
 トオルの目の前には、女の子がいた。
 いくつくらいだろうか。四歳か五歳? 年齢がいっていても小学校低学年くらいだろう。ふわふわの服を着て、それは大変可愛らしい様子だった。頭に何か奇妙なものを乗っけているという以外には。
 ようやくトオルから言葉が出る。返事は期待しないが、至極真っ当な疑問が。
「…………? 誰お前?」
 しかし女の子は瞬時に泣きそうな顔になり、テーブルの下にさっと隠れた。まるでそれは怒られた子どもが親から逃げる様子に似ていた。
「え? えええ? ……ここ俺の部屋だよな? ……この子誰だ!? どこの子!?」
 周りを見回しても、昨夜とちっとも変わらない自分の部屋であることに違いはなく、トオルはとにかく女の子を捕まえようとした。事態が事態だ、誰かにバレたら警察ものかもしれないし、ならばそれより先に迷子事案として届け出を出さなくてはならない。しかし鍵のかかっているはずのこの部屋にどうやってこの子は入り込んだのか? 短い時間にトオルはいろいろなことを考えながら、狭い部屋の中、女の子を追いかける。しかし彼女はまたこれでどうも追いかけっこで遊んでもらっていると思ったらしく、部屋を縦横無尽に駆け回った。こうなると、事務仕事ばかりで体力がなくなったアラサーと体力のあり余っている子どもとではレベルが違ってくる。
「ちょ、おい、待て、……勘弁して……」
朝から部屋中をかけずりまわされて、さぞかし下の階の住人には迷惑をかけていることだろう。そんなことを考える余裕もなく、トオルはもう足ももつれんばかりにヘロヘロになっていた。
 だが倒れこむのはトオルより彼女のほうが早かった。トオルに抱きつくようにぶつかった女の子は、そのまま崩れ落ち、すうすうと寝息を立てはじめた。
「は……眠かったのか、もしかして……」
 トオルは自分のあぐらを枕代わりに、女の子をそのまま寝かせてやることにした。ようやく気持ちが落ち着いて、女の子のつま先から頭のてっぺんまでを観察できたとき――トオルは彼女が頭に乗っけている奇妙なものに気がついた。
「……ん? これ、あいつの茶碗……」
トオルはその茶碗らしいものを外そうとした。しかし、根が這ったように外れない。
「なんだこれ。茶碗なんかかぶっちゃって、この子、……え?」
彼はそのとき、ようやくテーブルの上に目をやることができた。昨日と明らかに、そこの様子は違っていた。
 種を埋めた茶碗が、ない。
「あれ?」
テーブルと女の子を見比べながら、トオルは必死にものごとを整理していた。テーブルの上から消えた茶碗。その茶碗をかぶって現れた女の子。茶碗は外れない。茶碗には昨日種を埋めて肥料をやって水を……
「……いや……ないないそれはない。あり得ない。……おかしいだろ種から女の子生えるとか!」
そんな話は生まれてこのかた聞いたことがない。トオルは女の子に触ろうとしたが、とにかくいったん止めて、代わりにスマホに手を伸ばした。
「えーと……」
 ネットの質問箱。
『茶碗に種埋めたら女の子が生えましたがどうすればいいですか』
 アングラな掲示板。
『茶碗から女の子が出てきた件について』
 こういうときネットの回答は風よりも早かったりするからいい。トオルはそのまま、時計を気にしつつ三十分ほど待ってみた。
 ネットの質問箱。
『釣りにしてはネタが雑すぎます』
『二十点。次回期待しています』
 アングラな掲示板。
『ネタ乙wwwwww』
『おまわりさんこっちです』
『通報しました』
『マジレスするが病院行け、なっ』
 こうなることがわからなかったわけではないが、トオルは心の底から落胆した。
「ネタじゃねえって俺マジなんだって!!」
 念のためにいろんなキーワードで検索もかけてみる。
 【種 女の子】【種 育つ 女の子】【種 子ども 生える】
……いずれもロクな結果は出てこなかった。ではどうする? 警察に行っても結果はネットと同じになる気がして、トオルは動けなかった。それよりもなによりも、いま気にすべきはひとつのことしかなかった。
「やべ、仕事」
いつもより起きたのが早かったせいで、時間にまだ多少の余裕はあるものの、そろそろどうにかしなくてはならない。とはいえこんな子どもを抱えて出社できるわけもなく、トオルは休暇をとるしか選択肢をもたなかった。どうせ休暇はたくさん余っている。権利である。意を決して、電話をかけた。どうか電話口に出るのがノゾミでないようにと願いながら。
「あの、幸野です。お疲れさまです。すみません、ええと……今日休みください。わかってます、休暇願いはちゃんと書きますから、とにかく休みください! それじゃよろしくお願いします!!」
電話に出たのが幸いにも課長であったから、トオルは一息にそう言ってしまうと、乱暴に電話を切った。
 女の子はまだ眠っていた。トオルは怖々頭をなでてみたりしながら、そうして、これからのことに考えを馳せる。半ば呆然としながら。
「………どうしよう」
 そのときだった。部屋にインターホンの音が鳴り響いた。
「? 誰だ?」
まさか課長やノゾミではあるまいが。トオルは半信半疑、そうっとあぐらから女の子を外すと、玄関の鍵を開けた。
「はい、なんです……」
「はいどーも! 種田たねもの屋ですぅ!」
 にぎやかな名乗りと足音がほぼ同時に響き渡った。トオルは唖然とした。つい先日連絡の取れなかったミヤコが勝手に部屋へ上がり込んできたのだ。あの奇妙な格好で。
「たねもの屋! なんで俺ん家がわかった!?」
 いきなり部屋に上がられたことよりも、トオルにはその一点だけが謎だった。しかし――
「まあまあ細かいことは抜き抜き」
質問は見事にスルーされた。
「あんたフィンランドじゃなかったのか!」
 留守番電話ではそう言っていたはずだ。フィンランドのあとヨーロッパあたりを回ることまでご丁寧に言っていたくせに、なぜいまミヤコはここにいるのか。
「やーだなあ、イマドキ海外はすごーく近くなったんですよお。買いつけ終わって速攻帰ってきました」
その言葉が、トオルにはどうにも棒読み気味に聞こえた。だがもうそのあたりにツッコんでいる場合ではなかった。
 ミヤコの視線は、ただ一点、女の子に向いていた。眠る女の子を眺めながら、彼女はとても感慨深そうな口調で、言った。
「……ほほーう。咲いたんですねえ。【ハッピーシード】の、花」
「ハッピーシード……?」
 咲いた、というのは、この女の子のことだろうか。やはりあの種から咲いたのか。頭に茶碗が乗っている以上、足から先に生えてきたと考えたほうが妥当ではあるのだろうが、想像するといささか気持ち悪かった。
「育てたひとが【幸せ】だと思うことを、かなえてくれる花です。伝説の花でしてねえ、なかなか手に入らないんですよ。何が咲くのかとか、幸せがどうかなうのとかね、まだまだ知られざる種なものでねえ……」
「伝説の花? この子が? 何が咲く、って……俺んとこ女の子が咲いたぞ!」
 ミヤコは新種の何かを発見した博士か科学者のように、明らかに興奮していた。
「見ました。というか見てます。もうねェ、あたしたねもの屋としてこんなうれしいことないですよ。これだけのレアもの、一生にあと何回見られるか!」
「レア? 女の子が咲くのが?」
「普通はね、ぬいぐるみとかラーメンのお鉢とかそういう無機物が咲くんです」
 お鉢にぬいぐるみ……何が咲いても驚くだろうが、結果的にこの種はレアものではあったわけだ、と、トオルはひとりでおかしな納得をした。
「咲くのか。種からラーメン鉢が? それで?」
「ハッピーシードの花自身が幸せだと感じたら、育てたひとも幸せになります」
「?」
「たとえばラーメンのお鉢。お鉢は使われるのがお鉢にとっての幸せですよね、ひとつの考え方でしょうけど。毎日ラーメン食べるのに使われたら、使ったひと、すなわち育て主を幸せにしてくれるんです。お鉢が」
お鉢がひとを幸せにする? 何度も何度もトオルは口の中でつぶやいてみたが、
「どうもよくわかんないな」
素直な感想を口にした。
「要するに、あなたに幸せを運んでくれるんですよ。この子は」
「幸せを? ……ホントかよ」
トオルは、そういうのは前によく聞いた気がしていた。元彼女がやたらゲンを担ぐタイプだったから。確か幸福の木とかいう。
 しかし、ミヤコは「そういうのとは全く違うんですよ。実際に幸せは必ず来ます」と言って、「ただし」と添えた。
「ただし?」
「もし、花が、幸せを感じなくなったら、そのとき、花は、枯れます」
 枯れるというのは奇妙な表現だった。例えば目の前のこの子が枯れるとして、それはどんなふうにそうなるのだろうか。ミヤコはあくまでラーメンのお鉢の例えとして、さっきとは全く違ったトーンで深刻に言った。
「使ってもらえない時間がすこしでも長くなったりすると、お鉢は幸せじゃなくなって……、……割れます」
 部屋の中の空気が、すこし、さわりと冷えた。
「……それが、【枯れる】ってこと……か? じゃあつまり、もしもこの子が幸せじゃなくなったら」
 ミヤコはそれに答えず、代わりに、陽気なトーンに唐突に戻った。
「まあご想像にお任せしますが。ひとの形をした花って、ホント例がないもんですから。大事に育ててあげてくださいね。ちょくちょく様子見に来ます! じゃ!」
 ミヤコはそれだけ言うと、脱兎のごとくトオルの部屋をあとにした。
「おい!」
 ミヤコの深刻なトーンと、急激に戻った陽気なトーンのふたつが、かえってトオルを不安にさせた。眠り続ける女の子を横に抱えて、トオルは途方に暮れた。
「幸せじゃなくなったら枯れるって……それじゃ俺どうすりゃいいんだこれ……」
 突然に抱えることになった女の子と、非常に休みづらい仕事と、口やかましい上司の三すくみを想像しながら、とにかく先にすべきは休暇をとることだとトオルは考えていた。とりあえずいまは週末、月曜まであと二日。その間に言い訳を考えなくてはならない。
 だが具体的な言い訳が考えつかないまま、カレンダー通りに月曜日はやってきた。種から生まれた女の子――トオルはこの子に、シイコと名をつけた――は、とりあえず見た感じ【枯れる】こともなく、幸運なことに、トオルにもなついてくれていた。
 ため息をつきながら、トオルはスマホを手にする。シイコは相変わらず、くるくるとうれしそうに笑いながら部屋を走り回ったり、読めるのかどうかわからないが新聞を熱心に開いてみたりと、狭い部屋の中を自由に遊びまわっていた。
「…………」
このまま電話をしなければ逆に電話がかかってくる。それも多分ノゾミから。それだけは避けたかったトオルは、またしても課長が電話に出てくれることを願いながら総務部に電話をかけた。
「……おはようございます、課長! ……あの、すいません、この前いきなり休暇とっといて非常に申し訳ないんですけど、あと一週間、休ませてもらえませんか」
さすがに課長もトオルのサボりを疑ったらしい。電話口でそういうふうに言われて、トオルはもうすこしで「主任が怖いんです」と言おうとしたが、それもどうかと思って言葉を探していた。その瞬間、シイコが後ろからトオルの腋を勢いよくくすぐった。
「ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
 いきなりどうしたのかね、と、課長は若干引き気味になっていた。完全に気がどうかした会話になってしまった。こうなればそれをそのまま通すしかない。
「ああああすみません、熱です、熱でもうろうとしてまして、おおおピアノを弾くキリンの幻覚が見えるおおお。いまから寝ますんですみません、一週間、一週間休ませてください!!」
 電話を切ってから、トオルは「なんだよピアノを弾くキリンの幻覚って……」とため息交じりにつぶやいた。思いつきにしてはものすごい言い訳だったが、信じる人間が果たしているだろうか。しかもこの言い訳で、一週間もつのか。その間にシイコのことなどがどうにかなるのか。全くのノープランで話を進めてしまったことを、トオルはいまさらながら後悔していた。
 その間にも、シイコはトオルに遊んでほしいらしく、服を引っ張ってみたり、もう一度くすぐってみたり、べたべたと甘えてくる。トオルはトオルで、この二日の間にすっかりシイコと遊ぶのが楽しくなったらしく、追いかけっこをしてやったり、新聞を読み聞かせてやったりと、疑似子育てのような気分でシイコを構ってやっていた。
「さてそろそろ昼だな。なに食おうかな」
 こういうときシイコは水しか飲まないから、トオルは自分の分だけ考えればよいので楽である。冷蔵庫をのぞいて、とりあえず納豆でも食うかとパックを取り出したとき、インターホンが鳴った。
「へーい」
どうせたねもの屋だ、と思ってトオルは玄関ドアを開ける。ちょいちょい来ます、その言葉通り、ミヤコは一日一回彼の家にシイコの様子を見に来ていた。
 だが――――
「……幸野……?」
「主任! なんで!?」
 なんでと聞く必要は実際のところなかった。入ってきたノゾミの手に下げられていた袋からは、ぎゅうぎゅうに詰められたたくさんの食料品とフルーツと、飲料とお菓子と、とにかくいろんなものが顔を出していた。
「……見舞いに来たんだけど。熱出してるっていうから……」
 そうしてそのタイミングで、シイコがトオルの足の陰からひょこっと顔を出す。わあとトオルは慌てた。
「あの、主任、いや、この子は、この子はその、」
 ノゾミはいつもの冷静な顔に戻っていた。ただし余程重かったのだろう、荷物はその場に全部おろして。
「何……まさかあんたこの子の面倒みるために休暇とったの? キリンの幻覚見てるってのは嘘?」
 まさかと思ったが、幻覚の嘘を信じている人間が実際にいた。
「はあ、……ええ、まあ。……すいません……」
いろんな意味ですいませんである。
「たったの一週間? ああこの前まで入れたら八日ね。土日入れて全部で十日。もう好っきなだけ育児休暇とれば?」
すこし悪意のあるその言い方に、トオルは戸惑う。それは育児休暇を勧めたノゾミにももちろんだったが――
「いや、それがその、」
 言いかけたトオルを制しながら、ノゾミはずかずかと部屋に上がる。
「うわ……部屋ぐらいきれいにしなさいよだらしないわね、子どもには部屋のホコリってよくないのよ。母親は?」
「母親……いや母親は……」
「そういえばあんた、扶養手当の届け、出してた? こういうのはすみやかに出さないと。結果的に損するのはあんたよ、」
ノゾミはいかにも総務部の職員らしく真面目な意見を述べた。トオルは実際、それを勧めてくれるのにうれしさもあったが、まずクリアするべき点があることには当然気がついていた。まだ何か言葉を継ごうとするノゾミに、たまりかねてトオルは叫んだ。
「あーあーあー、あの、主任!」
「何」
「あの、茶碗から生えた子どもでも扶養手当ってもらえるんですか」
「は?」
「だから、子どもが人間じゃなくても、育児休暇とか扶養手当、もらえるんですか」
 トオルの真面目な様子に、ノゾミは面食らった。
「……あんたは何を言っているの?」
 この場合、手当や休暇がもらえるか以前に、彼の懸念は【自分が親として認められるのか】それたったひとつである。
「だから、この子、人間じゃないんですよ。創立記念日のお土産で残った種。育ててみろって、主任の言った、種です。あれ茶碗に土入れて埋めたら、この子が出てきたんです! ほら証拠にこれ!!」
シイコの頭の茶碗を指さしながら、トオルは必死に状況の説明を試みた。
 だがノゾミでも、さすがにこの状況は理解に困るところであるらしかった。
「……あんたもしかして、キリンじゃなくて別の幻覚見てるの?」
「ああもう違うんですってば!! たねもの屋が言ったんですよ、この子は育て主を幸せにしてくれる花なんだ、って。この子が喜べば、俺も幸せになるんだって」
 しばしの沈黙があって、ノゾミはとりあえずいま目に見えている状況を飲み込み、トオルの言い分を信じてみることにした。
「で、何。あんたはこの子喜ばすために、休みとったって訳? キリンの幻覚見てるって嘘ついて」
「……です」
「そのために喜んでないのがここにいるんだけどね。唐突に土日込み十日も休みをとられて!」
「いや、それは、……すいません……」
 シイコはこの一連のやりとりを、不思議そうな顔で見つめていた。最初こそ時々笑顔を見せていたものの、次第にその顔は泣き顔に変わっていった。いまにも涙がぽろぽろこぼれそうなその様子に、トオルは即座に気がついた。
「うわっ! ごめんシイコ、違うんだ、大丈夫、よしよし。びっくりしたんだな」
 トオルはとりあえず新聞をシイコに渡した。シイコはすぐ、新聞に目を落としたが、それでも不安そうな表情だけは変わらず、時々トオルとノゾミを見つめた。
「……なにこの子、新聞好きなの?」
「文字読むのが好きらしいんですよ。マンガよりは新聞のがマシかなと思いまして」
「絵本くらい読んでやんなさいよ、あんた親でしょ」
「いや親って、だからですね、」
「いいわ、私の実家にまだ絵本があったと思うし、あげるわよ、あんたに」
 それは突然の申し出だった。正直な話、トオルは戸惑いを隠せなかった。
「はい?」
 もう一度聞こうとしたトオルにかぶせるように、ノゾミは言い放つ。それは一種の照れ隠しにも見えた。
「とりあえず一週間の休暇は許すわ! そのあと本気でどうするのか考えなさい、うちだってそんなに暇じゃないのよ!」
言うだけ言って、彼女は逃げるようにトオルの部屋をあとにした。
 残されたのは大量の食料品だけだった。トオルとしては大変ありがたかったが、ここまでしてもらう理由はとにかくどう考えてもなかった。
「……なんだったんだ……」
 シイコは、さっきまでの泣きそうな顔はどこへやら、にこにことトオルを見ていた。ただし、トオルはそれに気がついていなかった。


 翌日には、袋いっぱいの絵本を抱えたノゾミがトオルの部屋にやってきた。
「……ほら絵本! これ、その子に読んであげて」
「わ、ありがとうございます。よかったなシイコ、主任が本たくさんくれたぞー」
 シイコは手をたたいて喜んだ。トオルが読み聞かせようとしたが、それより早く、シイコは好きな本に手を伸ばして、自分で読み始めていた。
「ね、シイコって、その子の名前?」
「そうですよ。ハッピーシードから生まれたから、シードからとって、シイコ。俺が考えたんです。なー、シイコ」
 シイコもにこにこと喜びの顔を見せる。言葉は話せないものの、名前は気に入っているらしかった。
「もっといい名前なかったの? タネコとか」
 タネコて。トオルはあきれたようにつぶやくと、目の前の人間がノゾミであることを忘れたかのように批判した。
「……俺の発想と大差ないしそっちのがダサい気がしますが」
「うるさいわね!」
 そのときだった。インターホンがたいそうにぎやかに――無論これはトオルの体感である――鳴った。
「ん? お客さんかしら?」
 ノゾミが自主的に玄関へ向かう。
 しかしトオルにはわかっていた。このインターホンの主は、間違いなく――
「いや……、たぶん……、」
「わああああああ」
 聞いたことのないようなノゾミの声がした。完全に冷静さを欠いた声だった。
「主任!」
「はいどーもー! 種田たねもの屋ですぅ!」
 ミヤコががしがしがしがしと強引に突入してくる。ノゾミは完全に気圧される形で、トオルの元に戻ってきた。
「誰あんた!」
「見てのとおりのたねもの屋ですが」
「見てわかんないから聞いたのよ! なんなの!」
 あ、やっぱり見てもわかんないよな、トオルはぼやけた考えを浮かべた。この数日ミヤコの襲来にすっかり慣れきってしまって、むしろ今日はおとなしいほうだとすら思う自分が、なんというか面白かった。
「幸野さんからお聞きになってないんですか。ハッピーシードのアフターフォローですよ?」
「……です。シイコの様子、一日一回見に来てるんですこのひと」
 ノゾミは上から下までミヤコを見ると、完全に敵意むき出しの状態で言い放った。それこそトオルがびくっと、すこし震えるくらいには。
「ハァ――。あんたなの。うちの会社に種納品して幸野にタネコ育てさせてんのは!」
「えー。ご注文されたのは幸野さんですよ?」
「あの、タネコじゃなくてシイコです、主任」
「うっさい黙って! たねもの屋、あんたね、うちの部下になにしてくれてんのよ!」
「言われても。【望んだ】のは、このかたですが」
とにかく噛みつくノゾミに、ミヤコは驚くほど冷静だった。いっそ総務部に来て仕事してほしいと、のちにトオルが述懐するほどだった。
 ただ、「望んだのはトオルだ」との言葉に、ノゾミも、そしてトオル自身も、それまでの思考が止まった。
「――え?」
「――は?」
 ミヤコはシイコをよしよしとあやしながら、ふたりに説明した。
「ハッピーシードは、本当に幸せになりたくてたまらない、自分の気持ちをかなえたいひとのもとに届くといいます。幸野さん、あなた自分でも知らないうちに、引き寄せたんですよ。この種を。じゃなきゃあたしが納品した種の中からあなたのもとにきたりはしないでしょ?」
「そりゃあ、まあ……」
 シイコが誕生するまでのことを思い出しながら、トオルはぼんやりとつぶやいた。引き寄せた、という言葉に、すこしの運命を感じながら。
「……順調に育ってますねえ。なんか幸せなことありました?」
 ミヤコはまるで子どもの定期健康診断における保健師のようなことを言った。
「いや、特にないな……。一緒に遊んで疲れて眠るだけだよここんとこ」
「…………花は、幸せそうですか?」
「そうなんじゃない? この子よく笑うわよ、いつも楽しそう」
 なんだかんだでノゾミも毎日トオルのもとに来ているから、シイコの様子は目にすることになる。思い返しながら、口をはさんだ。
「そろそろ俺が幸せになってもいいと思うんだけどな。宝クジ当たるとかいい部屋住めるとか、そんくらいないもんかな」
 期待をこめてそう言ってみたトオルの言葉を、ミヤコは即座に否定した。
「……ない、でしょうね」
「はい!?」
「この子――花が喜んでいるのに、あなたが幸せと思わない。ということは、それがあなたの本当の幸せではない、そうではないでしょうか」
 トオルは戸惑った。大金を手にするでもなく、豪邸に住むでもない、幸せ……?
「本当の……」
「ハッピーシードは、育て主の気持ちに忠実なんですってよ。あなた、自分の幸せが、お金とかそういうことだとは思ってないんですよ。――たぶんね」
「いや、でも、それってどういう……」
「――それとね。あなたが本当に、幸せだ、満たされた、と感じたら――ハッピーシードはね、種に戻るんですよ」
 ふたりは唖然とした。ノゾミが先に、言葉をつなぐ。
「戻る……? 種に……?」
「枯れる、ってことか?」
「いや、枯れるってのとも違いますけどね。いま、そうなってない、っていうのも、あなたが幸せになっていない、いい証拠ですよ。そいじゃまた来ます、じゃっ!」
「ちょっ!」
 ミヤコは言うだけ言うと、そそくさと出て行った。
 唖然としたままのふたりはしばらく、何も言えずにいたが、ようやく、思い出したようにノゾミが言った。
「……たねもの屋はいつもああいう感じなの?」
 その通りである。
「……ハイ」
「気になることを言ってたわね。あんたが幸せを感じたら、この子、種に戻るって?」
 そんな説明を聞くのは、トオルも、初めてだった。
 シイコが種に戻る。つまり……
「でも! 俺、いま、幸せとは思ってませんし……あー、でももうすぐ休み終わっちゃう……」
 キリンの幻覚休みは一週間。実際、あと数日で終わってしまう。次の言い訳を考えるか、さもなくば本当に育児休暇を取るかしなくてはならない。
「そうなれば昼間はこの子ひとりになるわねえ」
「ああああだめだそんなの! ちっちゃい子ひとりにはしとけないですよ!」
「そんなこと言ってもうちの会社には託児所なんてないし……保育園……とか幼稚園、は、いまからじゃとても無理か、困ったわね」
 ノゾミが本当に困ったように言うから、トオルは思わずすがってしまった。
「作ってください!!」
「無茶苦茶言うのやめなさいよ!」
 強く言ったが怒ってはいないノゾミの口調に、しゅんとするトオル。場を取り繕うように、ノゾミは「会社戻んなきゃ」と慌てた。
「……すいません。ちょいちょい来てもらってて……」
「……別に。課長はあんたがキリンの幻覚見てるって信じてるからね。外回りのついでに様子見に行ってきます、で通用してんのよ、いまのとこ」
 まさかの課長までキリンの幻覚を信じていた。まあ直接トオルの奇怪な笑い声を聞いたものだから無理もないところではあるだろうけれど、申し訳なかった。
「…………ありがとうございます」
「仕事はたくさんたまってるからね? タネコのこと、ちゃんと決めたら、連絡しなさい。あんた育ての親なんだから」
 トオルはいろいろと何も言えなくなった。ようやく
「シイコです…………」
とだけ吐き出せたが、ノゾミはさっき見せた、困ったような顔でトオルの頭を軽く小突くと、仕事に戻っていった。
 トオルは大きなため息をついたが、すぐ、シイコにねだられて絵本を読み聞かせてやるのだった。途中で眠くなってしまって、シンデレラが鬼退治に行ったり毒リンゴをつくったりとんでもない方向に話が飛躍してしまったが、シイコは楽しんでいたようだった。そのやりとりは、本当の親子のようだった。


 その日、いつものことではあったが、目が覚めたのはシイコのほうが先だった。こういうとき、シイコは必ず、絵本を読み始めて、もしそれでも持て余してしまったら寝ているトオルにちょっかいを出す。
 トオルはシイコがちょっかいを出すのを目覚まし代わりにしていて、起こされればシイコのためにネットで買ったミネラルウォーターを準備することにしている。すっかり、それが日課になっていた。
 シイコが、――いつもはそういうことより、頬を引っ張ったり、上に乗っかってきたりするものなのだが、――寝ているトオルの体をゆすった。
「ん――――……なんだシイコ、もう起きたのかぁ……きょうは大人しいなぁ。わかったわかった、いま、朝ごはんしたくするな……」
 トオルは身体を起こした。シイコと目が合う。これもいつものことであったが、彼の眼前にいたのは、シイコであって、しかし厳密に言って、シイコでなかった。
「なあぁああ――――!?」
 そのとき、玄関先で、インターホンをすっ飛ばしてドンドンという音がした。
「幸野!? 幸野、いるんでしょ!?」
「しゅしゅしゅしゅ主任んんん!」
 トオルは腰を抜かしたまま玄関に急いで、鍵を開けた。
「幸野! 玄関先まで叫び声聞こえたわよ!? 朝っぱらからご近所さんに迷惑かけ、……、?」
 部屋に飛び込んできたノゾミも、シイコを目の当たりにした。すこし間があって、
ノゾミは目をこする。何度かシイコを見直して、また目をこする。
 シイコはふたりの狼狽などお構いなしのように、床を転がってみたり、トオルに甘えてみたりと、相変わらず自由であった。
 ――姿が……変わっていると、いう、以外には。
「……ごめん、今日私眼科行こうかしら」
「……いや主任、多分俺にも同じもの見えてると思いますんで……」
「じゃあ聞くけどなんでタネコがのびてるの!」
「のびてるって言い方どうかと思いますが! あとシイコです!」
シイコは目に見えて成長していた。最初のシイコが幼稚園児くらいだったとするなら、目の前のシイコは中学生一歩手前くらいと言ってもおかしくない。
「一晩でいきなりこうなったの? たねもの屋はなんて言ってるの?」
「まだ今日来てなくて。何時頃に来るとか全く読めないんで……」
 瞬間、大変タイミングがよく、インターホンの音がした。間違いない、これで宅配便なら俺はキレる! トオルは勢いよく玄関に走った。
「たぁねもの屋――――っ!!」
「はいはいおはようございます。今日はいい天気ですねぇ、勢い余って朝っぱらから来ちゃいましたよおアハハ」
 果たして間違いなく客はミヤコであった。救われた、トオルはそう思いながらミヤコを部屋に通したが、ミヤコもまた、シイコの姿を見た瞬間、固まった。間があって、ミヤコは「んー」と言いながらトオルに拍手をしてみせた。
「イリュージョンがご趣味でしたかあ」
「違う! 朝起きたらこんなんなってたんだよ!」
「ねえ何これ? 育った、ってこと? いままでにこういうことってあったの?」
 ミヤコに迫るふたりに、ミヤコ自身も困惑している様子だった。
「……何度も言いますけど、ハッピーシードから、ひとのかたちをしたものが咲いたことはないんですよ。ラーメンのお鉢はそれ以上カスタマイズのしようがないでしょ」
 トオルは「なんでいつもたとえがお鉢なんだよ」とぼやいた。
 ノゾミは「それで、どうなんのこれ」と、形のいい眉毛を吊り上げて迫った。
「だーかーらー、成長とか、聞いたことないですし。もしかしてこのまま、大人になっちゃうんじゃないですかこの子」
「大人に!?」
「え……じゃあそこまで育てろってことなの?」
 ふたりの真剣な顔に、ミヤコはいつものへらへら顔で答えた。
「わかんないです」
「わかんないってなんだよ!」
「言ったでしょ、あなたが幸せだって思ったとき、この子は種に戻りますよ。最終地点がどこかは私にだってわかるもんですか」
 相変わらずミヤコもシイコになつかれている。ミヤコはシイコの頭をわしわしとなでると、にこにこと笑いかけながらトオルに言った。
「いっそこの子、嫁にやるまで育ててみたらどうです? ちょっとしたお父さん気分でしょすでに。いやあもう学会にでも報告したいとこですねコレ」
「あんのそんな学会」
 ノゾミはなぜか、聞いてみた。その言葉には幾分かの期待があるようでもあった。
「ないですけど」
「たねもの屋!」
 怒りというよりはすでにツッコミの域に達しているノゾミの感情を、落ち着かせるつもりがあるのかどうなのか、ミヤコは言った。
「人生にはちょっとの余裕が大切ですよ。幸野さんの上司さん、ですっけ。……ずいぶんと優しいお顔になったじゃないですかあなた。ねぇ」
 ほんのすこしだけ挑発的な感情を、ノゾミはそこに感じた。
「……なにが言いたいの?」
「幸せは、なにもひとりのもんじゃない……ってこと、ですかねえ」
「え…………?」
 ノゾミは聞き返したが、ミヤコはそれ以上を語らなかった。
 だがなぜか、ノゾミもそれ以上をミヤコには聞かなかった。


 土曜日だった。一週間の休暇は昨日ですでに終わっていて、この土日が終われば、休暇をどうするか考えなくてはならない。さもなくばどこかにシイコを預けるか。
 ノゾミはこの日もトオルの部屋に来ていた。成長したシイコは、髪もそれなりに伸びていたため、ノゾミがシイコの髪をとかしてやっていた。
 とてもゆるやかな時間が流れていた。
「――すいません主任」
「なにが?」
「週末ですよ。いろいろ予定……あったんじゃないんですか」
「別にないわよ。いいじゃない別に、タネコに会いに来たって。それとも迷惑?」
 ヘアゴムを手にしながら、ノゾミは言った。
 トオルはその光景を見ながら、あぐらをきちんと正座に直した。
「――いや。迷惑じゃ、ないです。ありがとうございます。あとシイコです」
「あらまあ……ずいぶんとしっかりしたこというのね。仕事もそれくらいまじめならいいのに」
「月曜から頑張りますよ! シイコもいるし、俺、もっともっと頑張らないと……」
「まるで一家の大黒柱ね。すっかりお父さんだわよ、たねもの屋が言ったみたいに」
だが、休暇を取るのか、シイコを預けるのか、その答えは全く出ていなかった。だからトオルは頭をかきかき、照れたように「責任感は全然足りてないですけど」と言った。
「何言ってんの、そんなもんあとからついてくるわよ。……ほーら、できた」
 シイコの髪をきれいにまとめて、ノゾミは満足そうにシイコの頭を撫でた。シイコはノゾミの首に抱きついて、うれしそうにきゃっきゃとはしゃいだ。ノゾミもまんざらではなさそうで、ふたりはしばらくじゃれあっていた。
 トオルはそれをやさしい目で見つめていた。
「主任はいいお母さんになりそうですねえ」
「――あんた何言ってんの」
 じゃれていた手を止めて、ノゾミはすごんだ。思わずトオルの首がすくむ。
「すいません……」
「冗談よ。誰からもそんなこと言われたことなかったからね……」
 このひとでも冗談を言うんだ。トオルは心の中でつぶやいた。出会ったころとは確かに何かが違っていた気がした。
 ノゾミはまたシイコとじゃれつき始めたが、すこしして、「あぁそうだ」とトオルのほうを向いた。
「明日、お弁当作って、公園にでも行かない?」
「公園ですか?」
「この子、一応、植物でしょ。日光浴させてあげたら?」
 日光浴。それはいい考えだった。確かに水はやっているし、時々ベランダで遊ばせてもいたけれど、そういうふうに、はっきりと外に出してやったことはいままでになかった。
「でもなんでそれに弁当がいるんですか?」
「ただ行くだけじゃつまらないでしょ。いいじゃないピクニックみたいな感じで。お弁当は私が作るわ」
「主任が!?」
「嫌なの?」
「嫌じゃないですけど。作れるんですか主任に」
「…………セクハラで人事に訴えるわよ」
 またトオルは思わず首をすくめた。だがすぐに、「いやいや、だって、」とつなぐ。
「意外なんですよ、なんでそこまで俺とシイコにいろいろしてくれるんです? 俺会社サボってるのに。すごくありがたいとは思ってますけど」
「……ま、きまぐれよ」
「はぁ……」
 シイコはにこにこと笑いながら、ふたりの間をうれしそうにとてとてと回っていた。
 トオルはシイコを抱き寄せると、頬をむにむにと触りながら言った。
「シイコ、よかったなー。明日みんなで公園行くぞ、天気いいといいな!」
 シイコは手をたたいて喜ぶ。
 その様子を見たトオルは、抱き寄せていたシイコの身体を、ぎゅうっと音がするくらい強く強く抱きしめた。
「……俺……なんかいま、すっげえうれしい。……あの、主任?」
「何」
「シイコがもし嫁に行くことになったら……俺、泣くと思います……」
「あんたいまから何言ってんの!? どんだけ父親よ!」
 ノゾミは心底からあきれつつも、苦笑して、シイコを抱きしめ続けるトオルの頭をくしゃくしゃとやった。
 シイコはトオルの腕の中、とても幸せそうな顔で、いい寝息を立てはじめた。
 トオルはシイコを抱きしめる手をすこし緩めて、ゆらゆらと揺りかごのように自分の体を揺らした。
 ノゾミは、時々、こくん、こくんと、トオルの首が傾くのを見ながら静かにつぶやいた。
「……私も、泣くかも、ねえ」
 ノゾミの、そのつぶやきが、トオルに聞こえたかどうかはわからない。


 日曜日はよく晴れた。ノゾミの作った、サンドイッチとおにぎりと、たくさんのおかずの詰められたバスケットと、ミネラルウォーターをたくさん持って、三人は近くの公園へ向かった。
 途中で疲れて眠ってしまったトオルと、青い草の上を駆け回るシイコと、それを見守るノゾミと、それは三者三様の「とてもいい休日」だった。
 だから家に帰ってくるのは夕方近くになってからだった。眠ってしまったシイコを背中におぶったトオルと、荷物を抱えたノゾミは、帰途についていた。
「いやー、よかったですね、天気よくて!」
「そうね、空気もよかったし……タネコもずいぶん喜んでたし」
「主任! だからシイコですってば!!」
「いいじゃない、タネコって呼んでもなつくわよ。ねぇ、タネ……」
そう言いながらシイコの頭を撫でようとしたノゾミは、大変なことに気がついた。
「え!?」
 ノゾミの青ざめた顔に、トオルはいきなりどうしたのか、と、不可解な顔をした。
「主任……?」
「幸野!! いつこの子、縮んだの!」
「えっ!?」
 縮んだ!? いつの間に? トオルは背中のシイコが軽くなっていることに、いまさらながら気がついた。無理に背中を見ると、初めて会った頃のシイコに戻っている。
 ふたりは急いでトオルの部屋まで走り、トオルの布団にシイコを寝かせた。
「なんで……!? なんで縮んでるんだ!?」
「幸野、すぐたねもの屋呼びなさい!!」
 トオルは慌ててミヤコに電話をする。
 最初こそ「あらららら、今日お留守だったからさみしかったんですよお」と能天気なことを言ったミヤコだったが、トオルから話を聞くと、急に深刻な雰囲気になり、その五分あとには神妙な顔つきで彼の家にいた。
 ミヤコはシイコの様子を見るまでもなく、トオルの家に上がり込むなり、言った。
「結論から言いますけどね。……たぶん、戻る、前兆です」
 わかってはいたが、なにか別の答えが欲しくて、トオルは必死だった。
「戻る? 何に?」
「種に、です」
 トオルばかりではなく、ノゾミも絶句した。そうなのではないか、でもそうであってほしくない、思いが錯綜して、声に出ない。
「この一週間とすこし……あたし、あなたがたをずっと見てきましたけど、最初のころから比べて、おふたりともかなり満たされた感じがしますよ。この子は、それを、感じたんでしょう」
「……だから、種に戻るっていうの?」
「冗談だろ! どうしたらいい? 俺幸せじゃありませんて言えばいいのか?」
なんとかしたかった。その気持ちはトオルもノゾミも一緒だった。しかし、目の前のミヤコは、静かに首を振った。
「言ったでしょう。ハッピーシードは、育て主の気持ちに忠実だと。あなたがどんなに言葉で「幸せじゃない」と言っても……あなたの心は、幸せだと言っている」
 トオルは何も言えなくなった。シイコが眠る布団に近づくと、そのままうなだれて、ただただシイコの顔を見つめた。
 ノゾミはミヤコに向き直った。こみ上がるこの気持ちが怒りなのか、戸惑いなのか、もう彼女自身にもわからなくなっていたし、感情はいま、完全に露わになっていた。
「――ずいぶんと残酷な話じゃない。花がいること自体が幸せなひとは、どうすればいいのよ」
「あのひとのように?」
 ふたりの瞳がうなだれるトオルを見つめた。
「…………ええ」
「どうすればいいかは、あなたならもうご存じなんじゃないですか?」
 言われてノゾミははっとする。答えの代わりに、ノゾミは、静かにミヤコを見た。
「……、あんた、本当にたねもの屋?」
「そうですよ。あたしはただのたねもの屋です」
「――――そうね。たぶん、私は、知ってるわね」
どうすればいいか、その解答を。
 眠っていたシイコが、不意に起き上がって、最高の笑顔で、トオルに抱きつく。
 トオルは涙をぽろぽろこぼしながら、ぎゅうと抱きしめ返した。
「シイコ、なあ、戻らないで……俺のとこ、ずっといてくれよ、なあ、シイ……」
 その瞬間だった。トオルの腕からすり抜けるようにシイコの姿がかき消え、茶碗が真っ二つに割れた。からん、と、乾いた音がして、あのときトオルが茶碗に埋めた種が、割れた茶碗の片方に転がった。
「シイコ!!」
「……種に……戻ったの……」
「そういうことです。ハッピーシードは、役目を、終えました」
「役目を終えたって……俺まだちっとも幸せになってないじゃないか! なあ!」
 ぼろぼろと泣きながら、トオルはミヤコにすがりついた。いままでの陽気さが一転、ミヤコは、とても冷静だった。
「……あなたが、気づいていないだけですよ」
 ノゾミは茶碗の片端から種を拾った。なににも似ていない、初めて見る形の種だった。しばし、トオルと種とを見ていた彼女は、空間を見つめなおしてから、ひとりごとのように、言った。
「たねもの屋」
「なんでしょう」
「この種、また土に埋めたら、どうなるの?」
「……さあ……ただ言えるのは、同じ花は咲かない、ということくらいでしょうか。ハッピーシードの花は、そのとき限りのものですから。土に埋めても、もう、普通の花しか咲かないと思います」
「それでも、埋める価値は、あるわね?」
 ノゾミの言わんとするところを察したミヤコは、静かに言った。
「――あなたが、そう思うのなら」
「そう。ありがとう。そのうち植木鉢を買いに行くわ、あなたの店にね」
「配達いたしますよ。そこまでがアフターフォローですから。では、また後日」
「ええ、待ってるわ」
 ミヤコは静かにトオルの家を去った。
 ノゾミはミヤコの気配がなくなるまで彼女の背中を見つめたあと、トオルのほうへ向いた。彼はまだ、子どものようにしゃくりあげていた。いい歳をした大人ではあるけれど、トオルの混乱は見てとれた。
 自分が同じ立場になったらどうだろう。ノゾミはどこか頭の片隅で考えていた。
「幸野」
「……わかんないです。俺、何が幸せだったんだろう。なんでシイコは消えちゃったんだろう。主任……俺、シイコ幸せにできたんですか。俺はシイコがいて、主任がいて、幸せだと思ったのに。シイコいなくなっちゃって、俺、俺、…………」
 ノゾミはゆっくりと、やさしく、包み込むように、後ろからトオルを抱きしめた。
「幸野。……シイコの種、ちゃんと、残ってるじゃない。私だって……ここにいる。大丈夫。大丈夫よ……」
 トオルは泣いた。ノゾミから受け取った種を握りしめたまま、たくさん泣いた。


 ミヤコは数日後、植木鉢を配達しに来た。
 その後、トオルの家には来なくなったし、連絡がとれなくなった。トオルは何度か電話してみたが、コートジボアールに支店を出すので店はしばらく休む、という録音ボイスが流れるのみで、それもいつしかつながらなくなった。
 ミヤコのことも含めて、あの一週間のことは夢だろうかとトオルは時々思う。だが、休暇中にたまっていた大量の書類と、なにより植木鉢に埋めたシイコの種が、夢ではないことを如実に証明していた。
 種から芽の出ないまま、二年が過ぎて、トオルは今日、この部屋から引っ越す。
 だが思うところのありすぎるこの部屋、片づけは進んでいなかった。カップや皿を新聞紙にくるみながら、トオルは植木鉢を見つめては小さなため息をついていた。
 何度目かのため息をついたあと、玄関で甲高い声がした。
「ちょっと、トオル!」
 トレーナーとジャージのノゾミが駆け込んでくる。さっきから彼女は部屋とトラックの間を忙しそうに往復していた。
「あんたクローゼットの中はきれいにしといてって言ったでしょ! 引っ越し屋さん呆れてたわよ!」
「あー……すいません、そのまま使えて楽かなーっと思って」
「もう! 本はちゃんと小さな箱に入れたんでしょうね?」
「入れました入れました。すいません」
「すいませんじゃないの。ほら早く片づける!」
 外に出かかったノゾミは、「あ」と小さな声を上げた。
「ちょっと、引っ越し先の大家さんには挨拶すんだの?」
「あ、昨日、しときました。ご挨拶のお品も渡しときました」
「……あらまあ、気が利くのね」
 二年前には考えられなかった気の回しようだ。
「主任にしつけられましたから!」
だがこれだけは直っていなかったらしい。ノゾミは大きくため息をつくと、「何度も言ったけど」と前置きした。
「…………トオル! 主任、は、やめろって言ったわよね?」
「……あ。すいません、しゅ……、えと……ノゾミ、さん」
「さん、もいらないって、言わなかったかしら」
私だっていまだにあんたのこと、幸野って呼びそうになるのよ、自分も幸野のくせに――そう言って叱るが、トオルは変わらず「すいません」と申し訳なさそうにつぶやくのだった。
「……ほら、片づけ続き! お昼には新しい家に行っときたいから!」
「はいっ」
 とはいえ、ふたりとも、幸せそうな表情を時折見せることには変わりなかった。
 ノゾミが作業の続きに入って、トオルもまた皿をまとめ始める。時間はかかったが、片づけはようやく終わって、あとはテーブルと植木鉢だけになった。
 テーブルをトラックに積んでもらう。部屋に残り物がないことを確認して、トオルは、植木鉢を持ち上げた。
「……シイコ、新しい家に……お前も一緒に、行こうな」
何度も何度も、持ち上げたり置いたりして、トオルは植木鉢を見つめた。
 そのときだった。ぽっちりと、トオルは何かに気がついた。
「……あれ? ……芽? ――芽だ!! うおお芽ェ出た!! 芽だよ芽が出たよ!! しゅ、間違えた、ノゾミさ、じゃない違う、ノゾミ!! ノゾミー!!」
ノゾミの名をしこたま呼びながら、トオルはあわてて玄関を出て行った。
 部屋の中ひとりで大騒ぎするトオルの声は、外のノゾミにも聞こえたらしく、いぶかる引っ越し屋をなだめてからトオルを叱りに行ったものの、トオルから事態の説明を受けると同じように興奮して、そのあと「なによもう、この忙しいときに、ホントなの?」と冷静になってみた。
「本当ですってば、早くこっちこっち!」
トオルはノゾミに植木鉢をのぞかせる。
「――あら、ホント! 芽だわ!」
「ね! 芽ですよ! ようやく出ましたよ!」
「そっかあ……楽しみね。なにが咲くのかしらね」
 ふたりで植木鉢をのぞきこみながら、会話も気持ちも、先の未来へ向かっていた。
 トオルにも、ノゾミにも、見えていた。いつかきっと出会う、シイコの姿が。

 春は、すぐそこまで来ていた。


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