カモメ塩サバ六番地

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 その町に、バスは少ない。
 今どき【ぱぷー】と音のする、古くさいバスに乗り込むと、これまた古びた機械から【がしゃん】と整理券が出てきた。東京と違って料金後払い、その上料金表が電光掲示板じゃないところもまたレトロな感じがする。こんなところでノートパソコンを出すのはある意味愚かだ。僕は開きかけたキャリーケースをそっと閉じた。


「次は海風六番地、海風六番地。お降りの方はお知らせください」
海風六番地。聞きなれた、でも忘れかけていたその地名を聞いて、僕は少しだけ慌てた。そうだ。早く押さなきゃ、ボタン――――
 【きこーん】と音がした。僕のほかにも、降りるつもりの奴がいたらしい。伸ばしかけた手を引っ込めて、座りなおす。それでも着くのは早かったはずだから、と思って、僕はバッグを抱えた。
「海風六番地、海風六番地。お忘れ物のないようにお降りください」
窓から見える景色は、僕がこの町を飛び出した時から、少しも変わっていなかった。風に乗って、ほんの少し、塩辛い匂いが鼻をくすぐった。その時、
「おい」
少し高めの段差から、たん、と降りて、去り行くバスを見送った僕の背中に、低い声がぶつかった。
「はい?」
振り返る。背中に大きな影。多分、男だ。
「このヤロ! やっぱりケースケか、『はい』なんてかしこまりやがって!!」
バンバンと僕の肩を叩いて、男は豪快に笑った。
「……あ……キョータ! キョータか!?」
「やっと思い出したのかよ! つれないねえ、都会に染まっちまうと俺の顔さえ忘れちまうかな!?」
「忘れるわけないだろ! ずいぶん……黒くなったじゃないか……あの時よりも」
「そりゃ、な。あん時からもう何年だっけ? 七年は経ってるわなあ……日焼けもするさ」
そうして僕らは顔を見合わせて、少し、笑った。
「よく帰ってきたな、ケースケ」
「うん。ただいま、キョータ」


 キョータは僕がこの町にいたときの親友だった。父さんと母さんが亡くなって、都会に行くことを決めた僕に、この町でただ一人反対しなかった奴でもある。
『行きてえとこに行かしてやれよ。ただし、弱音はいて戻ってきたら、俺がフカのエサにしてやるからそう思っとけ』
 その言葉は僕にとって最高の応援だった。フカのエサにはなりたくなかった僕は、キョータとの約束通り、弱音を吐くことはなかった。東京だろうがどこだろうが、弱音を吐いたらキョータが飛んでくるような気がしたから。
「なあ、みんな、元気にしてるのか?」
 キョータと並んで歩きながら、ふと、そんなことを聞いてみる。
「あん? ああ……結婚した奴もいりゃお前と同じようにこの町を出てった奴もいる。でも便りは来るから元気なんだろーさ。俺、【便りがないのは元気なシルシ】っての、信じねえタチなんだ」
「はは、お前らしいや」
そう言った僕の声は少しだけ渇いていた。自分でそれが可笑しいくらいに解って、どうしてか笑えた。

 僕はそんな言葉を聞きたいんじゃない。キョータ。
 解ってるだろ? 僕が一番聞きたいのは。

「…………それと、…………」
「うん」
あえて僕はあいづちしか打たない。それがどんなにずるいことだと解っていても。
「まだ、待ってるぞ、お前のこと。ずっと」
「待ってる? そんな馬鹿な!」
思わず声が出た。【待ってる】そんな単語が出てくることなんか、想像の範疇になかった。
「馬鹿? 馬鹿はどっちだよ、七年も待たして。あいつ一人で、まだやってるぞ、【六番地食堂】。すぐ会いに行ってやれ」
「まだあったのか!?」
僕はいてもたってもいられなくなった。抱えていたパソコンバッグをぱん、とキョータに預けると、僕は海風六番地の中を、およそこの場所には似つかわしくないスーツ姿で駆け抜けた。
「相変わらず決めたら早いねえ。…………オヤジ、ケースケは帰ってきたぜ。俺の、勝ちだな」


「カモメ!」
 引き戸を開けて、【六番地食堂】と書かれたノレンを勢いよくめくると、じゅわあ、と、魚の焼けるいい匂いがした。
「あら。もっと遅いかと思ってたわ」
「嘘だね。それ、僕のためのじゃないの?」
「……ヘッ。バレちゃあ仕方ないわね。注文は?」
「もちろん塩サバ定食。どうせ作ってんのそれなんだろ」
「トーゼン。それともナマコ定食のほうがよかったかしら?」
「……イヤミか、それ」
厨房から顔を出しながら僕と会話していたカモメは、僕のその言葉に、ちょっとだけ「あ」という顔をした。
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
「いや、いいよ。ゴメン」
カモメはお盆を持ってきた。お盆の上には、塩サバの焼いたのと、ご飯と、味噌汁と、自家製の漬け物と、ほうれん草のおひたしが載っていた。
「はい、塩サバ定食、お待ちどう」
「変わらないメニューだな」
「そのままよ。お父さんたちがいたころから、ずっとね」
 カモメは【六番地食堂】の一人娘だ。おじさんとおばさんは、僕の父さんや母さんと一緒に亡くなった。それでも、僕みたいにこの町を飛び出さないで、ここでおじさんの造った【六番地食堂】を守り続けている。僕なんかより、カモメは数百倍は偉い、と思う。そして、あんなことがあったのにもかかわらず、漁師という道を選んだキョータも。
 僕はこの町にいるのが辛かった。それでも今日、帰ってきたのは。
 明日が父さんと母さんの――七回忌だったから。


「まだ……海、怖い?」
 その質問に、僕は箸を止めた。
「どうなんだろう。多分、怖いよ」
ほうれん草のおひたしをつついて、カモメの顔を見ずに僕は答えた。
「十分すぎた。トラウマになるには」
「そう……」
ここの塩サバは冷めても美味い。僕は箸をお盆の上に置くと、少しだけ息をついて言った。
「あの日……父さんも、母さんも死ななかったら、きっと僕はここに残っていたんだろうと思う。残って、多分漁師になってた」
「ケースケの漁師ね……」
くす、とカモメが笑うので、僕はちょっとだけ不機嫌になった。
「想像がつかないって言うんだろ。いーよいーよ」
「つかないわよ。キョータみたいに真っ黒に日焼けしたケースケって、イメージにない」
「ここにいた頃は本気で漁師になろうと思ってたよ。――でも――」
「やっぱり、怖いんだ?」
「――――うん。キョータには怒られるだろうけど」
「怒らないよ、キョータは。ケースケのこと、一番解ってる」
「そうかな」
「そうだよ。キョータは今でも言ってるよ、ケースケは必ず戻ってくるって」
「二人で漁師やるの、夢だったからな。アイツ、その約束まだ覚えてるんだ」
僕は少し冷めた塩サバをむしった。この町に来ると、やっぱり、記憶がめぐっていく。それが嫌で――僕は町を出た……。


 七年前、高校卒業と同時に漁師になることを決めた僕は、とにかく毎日のように海へ出ていた。それが修行にもなったから、父さんや母さんたちとよく、小さな船を出してはなにか釣って帰ってきた。
 ――【事件】は、本当に突然に起こった。海の上で僕らの釣り船はいきなりの嵐に見舞われ、転覆した。そのときの記憶は多少ぐちゃぐちゃだけれど、大きな【蒼】に飲み込まれたのだけははっきり覚えてる。息が苦しくて、胸の中が氷を当てたように冷たかった。
 ……釣り船に一緒に乗っていた父さんと母さん、それからカモメのとこのおじさんとおばさんは助からなかった。キョータは、自分の両親と一緒に捜索隊に加わってくれて、最後のひとりが見つかるまで海の上から離れなかったと、カモメが言っていた。
 僕は父さんと母さんの葬式から間もなく上京した。あれから七年経つけれど、未だに僕は生魚が食べられないでいる。あの時の海の冷たさを連想してダメなんだ。カモメがさっき言った【ナマコ】に笑えなかったのも、そのせいだった。


「ごちそうさま」
「まいど。六百円ね」
こんなに安くてこの商売立ち行けてるのかなあ、と、僕は久しぶりにやってきた分際でそう思った。まさか一週間に一回店を開けているとか、そんなことはないだろうけど……それもこれも、みんなカモメが頑張ってきたからなんだろう。そう考えると、なんだか申し訳ないような、不思議な気分になった。
「いつまでいるの?」
「え? ……ああ、七回忌の法事が終わって、次の日帰るよ。仕事あるし」
「そう――ケースケ、仕事そんなに面白い?」
「面白い? って……そりゃ好きでやってる仕事だからね」
「…………嘘つき」
カモメの静かなつぶやきに、僕はドキリとした。
「ホントは漁師になりたいって思ってるくせに。違う? おじさんとおばさん、亡くなってから、すぐ東京行っちゃって」
「それは……」
たたみかけるようなカモメの言葉に、僕は呆気に取られた。カモメの口からこんなに激しい口調のセリフが飛び出してくるなんて……
「逃げたんじゃないって、ケースケは気持ちの整理をするために東京行くんだって、あたしずっとそう思って、七年、ケースケが帰ってくるの待ったよ。キョータも、それ、信じてたんだよ」
「僕は……」
「苦しかったのは、ケースケだけじゃないよって……あたし、ずっと言いたかったんだよ」
「…………!」
僕はそれきり黙った。今は、それからどうすることもできないということを、ぴりぴりと肌で感じた。財布からちょっきり六百円を出し、テーブルにそっと置くと、僕は逃げるように【六番地食堂】をあとにした。


 懐かしい家の前には、僕の荷物がそっくり置かれていた。
「サンキュー、キョータ」
家に鍵はかかっていなかった。隣近所が勝手知ったる間柄だ、鍵なんてあってないようなものだから、別にかかってなくても驚きはしない。ただ、七年間も空けていた分だけ、きっと家は荒れ放題だろう。それだけを覚悟して、僕は玄関の扉を開けた。
「……え」
 思い切り予想に反して、目立ったほこりもなく、家の中は整然としていた。ひとしきり驚いた僕の目に、靴箱の上に置かれたメモの文字が飛び込んだ。【家の管理はしっかりやっています。心配しないでね】――署名は、キョータのとこのおばさんと、そして、――カモメ。

「七年、ケースケが帰ってくるの待ったよ」

カモメの声が耳の奥で聞こえた。僕は大雑把に靴を脱ぎ捨て、茶の間に向かった。
 畳も久しぶりだ。少し息を吐いてから、僕はおもむろにパソコンのキャリーケースを開けた。……本当は、もっと他にやらなきゃならないことがあるはずだ。七回忌だって、ただ単にお経をあげてもらうだけでおしまいというわけではないだろう。それでも今は、なぜかこうせずにはいられなかった。
 【ぴぱ】と音がして、パソコンがたちあがる。都会にいた僕にとって、ずっと、この小さな液晶の世界がすべてだった。液晶の何倍も大きくて広い海を、恐れて、忘れて、僕はここまできた。
 メールチェックをするつもりで、モバイルカードを差し込む。だけど、電波受信の光はともらなかった。海沿いだというのに電波状況ははなはだ悪いらしい。僕は少しだけイラついて、パソコンの電源を切った。
 茶の間に寝転んで、僕は天井を見た。茶の間の広さが、背中で感じられた。父さんと母さんがいた頃は、こんなに広い所だなんて思わなかった。
 しばらくして、僕は起き上がった。いつまでも寝ていても仕方がない。久しぶりに見る部屋たちを、ひとつひとつ確かめるように回ってみた。僕の部屋。風呂。父さんの書斎。……そして、仏間。……位牌の置かれた仏壇はさみしそうだった。手入れはされているようだったから小奇麗ではあったけれど、それでも、本当に世話をするべき主がいないことを、その仏壇は物語っているように見えた。
 この家は、僕を感傷的にさせる。


 七回忌はキョータん家の手伝いが大幅に加わって、無事に終わった。法事の最中も、カモメとは気まずいままで、ほとんど会話しなかった。そりゃ逃げてきたのは僕だから、なんとも言えないんだけど、キョータは明らかに僕らのおかしな様子に気がついていたようだった。でも、彼は僕に何も言わなかった。


 結局、ノートパソコンはただのお荷物になってしまった。手慰みのつもりで入れていたゲームで少し遊んだくらいで、僕はキャリーケースにノートパソコンをしまった。あと、ボストンバッグにワイシャツなんかを入れてしまうと、それで帰りの支度は終わってしまった。
 二泊三日。七年ぶりの帰省は、あまりにも早かった。
「行ってきます」
 誰も聞いていないのは解っているけどね、そうつぶやきながら、ここに戻ってきたときと同じだけの荷物を抱えて、僕は家を出た。【六番地食堂】に挨拶に行こうかと思ったけれど、どうせ、カモメしかいないし、今、カモメにはなんだか会いにくかったせいもあって、僕はまっすぐバス停を目指した。
 少し歩くと、見覚えのある影が、僕を待っていた。
「よお」
「キョータ」
「今日、帰んだって?」
「ああ。仕事、あるから」
「仕事……ねえ。カモメが言ってたぜ、ケースケはやりたくもない仕事をやってるって」
カモメのやつ、キョータに告げ口したな。
「そんなことないよ。……楽しいさ」
「漁師、よりか?」
「…………」
「あるジジイがさ、町を出てったあるひとりのヤローについて『あいつはここには戻ってこんぞ、戻ってきても二度と漁師にはなるまい』なんて言いやがんの」
いきなりなんの話だと、僕は多少面食らった。でも、すぐに解った。これは僕のことについて語る、キョータんとこのおじさんと、キョータの話なんだってことが。語るキョータの瞳はどこまでもまっすぐだった。
「それでそのジジイの息子がさ、『そんなわけあるかよ! ぜってー戻ってくるさ。釣り船一台賭けるか!?』って、無茶な賭け持ち出したんだ」
「釣り船一台を賭けて……」
「別に釣り船が欲しかったわけじゃないんだが、息子は芯からそいつが帰ってくるのを信じてた。何年たっても、必ず戻ってくるって」
「…………」
「そして、その賭けに一瞬でも乗ろうと思った奴が、もうひとりいた」
「え?」
もうひとり? 誰だろう、と、僕は思った。そんな賭けに乗るやつなんか他にいただろうか、僕の知り合いで――――
「俺は止めた。やめとけって。でも、そいつは戻ってくる方に賭けた。【六番地食堂】名物、塩サバ定食一年分」
「!」
頭のどこかがくわんくわんと鳴った気がした。すぐには理解できなくて、でも、心の隅っこで喜んでいる自分がいた。
「だけど、――七年だぜ。長すぎる。なぜ賭けた。なぜ待ったんだ」
ほんの少し冷静になる。そうだよ。普通なら七年も待てないだろう。キョータはともかく、カモメはただでさえ可愛いんだから、町の男どもが黙っていなかったはずだ。それこそキョータだって――そう、僕は、キョータならと思って――
「何のためにカモメが今まで独身だったと思ってんだよ」
突然ぶつけられたキョータの言葉に、僕は「エ?」と返すしかなかった。鳩が豆鉄砲をくらったような僕の顔をまじまじと見て、キョータは呆れたようにため息をついた。大げさに手振りまでつけて。
「鈍いねェ、都会人はこれだから。いいか! カモメはお前のことずっと待ってたんだ! 海が嫌いでも構わない、一緒に【六番地食堂】やっていきたいって、ずっとそう言ってたんだぜ、あいつは」
「…………」
キョータは少しだけ切なげな顔をした。僕はキョータの瞳の中に、あの日と同じ、深い【蒼】を見た気がした。
「キョータ……」
「俺じゃ駄目なんだよ」
「は?」
「もう二年も前かな。フラれたのさ、カモメに。俺じゃあ役不足らしい」
「そんな」
自慢じゃないが僕は人を見る目だけはあるつもりだ。キョータは男の僕から見ても男気の溢れた奴だと思う。【女が惚れる男】だ。それなのに。
「カモメの目はケースケしか見てねえのさ。一緒に塩サバ定食作るのはお前だって、お前が町を出てった時からそう決めてたらしい」
「…………!」
「お前のことだからどーせ、俺にカモメを譲るくらい考えてたんだろ。甘かったな。自分の気持ちにウソついて一生終わらすことほどくだらねえことねえぞ」
核心を突かれた気がした。僕は……
「ホントは、ここだって――出て行きたくなかったんだろ」
キョータの深い色の瞳に見つめられて、僕はうなずくしかなかった。
 そうだ。僕はとにかく、海を見たくなかった。東京湾さえ、見てて吐き気がした。だけど、内陸部へ内陸部へと向かうたびに、僕の心を突くのは六番地の風景だった。海を忘れたくて、僕は普通に就職して、父さんと母さんの一周忌にも、三回忌にも出なかった。
 今、僕はそのことを後悔している。帰ってくるところはここだと――解っていたはずなのに、それを避けた自分に、なんだか腹が立った。
「答えてやったらどうだよ。正直なキモチ、お前ホントは海、好きなんじゃないのか。いや、好きになろうって、ホントは努力したいんじゃないのか」
「……そうかも、しれない」
「そら言わんこっちゃねえ。本気で忘れたいなら……七年経ったって帰っちゃこなかったはずだぜ。――戻ってこいよ、海風六番地に」
「キョータ……」
「これ以上、カモメをひとりにするな」
キョータとの会話はそれで終わった。ちょうどその時、バスがやってきたのだ。僕は彼の最後の言葉をちくちくと心の中に縫いつけたまま、東京へ戻った。


 悩んでいた。
 ここには――東京には、父さんと母さんの思い出は、何もない。僕が持ってこなかったからだ。でも、あそこには。海風六番地には――ある。
 カモメは言った。「苦しかったのは、ケースケだけじゃないよって……あたし、言いたかったんだよ」と。カモメも苦しかったはずなんだ。キョータも辛かったはずなんだ。それなのに、僕はひとりであの町を出た。思い出があったはずのあの町を。
 ベッドに寝転んで、天井を見る。東京に戻ってきてから、僕は一度もノートパソコンを開いていなかった。もちろん仕事で使う時は別だけれど、この部屋の中で開いてしまったら、すべてが消えてしまうような気がした。
 帰りたい、と、初めて思った。
 海風六番地に。カモメのところに。

 僕の帰るべきところが、今、解った。

僕はその晩、滅多に使わない真っ白な便箋と封筒を取り出した。


「本当に辞めるのかね」
「ええ。もう、決めました」
親切な上司は残念そうな顔をした。飲みに誘って快く受ける部下は僕くらいだったから、今後飲み相手がいなくなって寂しいとでも思ってるんだろう。
「残念だね。君はいい飲み相手だったんだが」
ほらね。
「で、これから、どうするのかね?」
「地元に帰ります。帰って、――なくしていた夢を取り戻そうと思っています」
少々芝居がかった言い方だった。でも、それは真実だった。【若者の夢】という単語に大変弱い我が上司は、ひとつ、うんとうなずいて、僕の辞表を受理した。
「私も遊びに行っていいかね。海風六番地に」
「え……? 部長、僕の故郷をなぜ」
「簡単なことだ。私の故郷は海風五番地だよ」
「!」
「ええと、【六番地食堂】といったか、あそこの塩サバ定食は美味かったが、久しぶりに食べたいものだ」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ笑った。
「ぜひ。お越しいただいた時には、これまで以上においしい塩サバ定食を御馳走できると思いますよ」


 バスの少ないその町に、僕は大荷物を抱えて戻ってきた。引っ越し屋は明日来ることになっている。父さんと、母さんと過ごしたあの家に。
「ケースケ」
バス停ではキョータが待っていた。昨日、連絡しといたんだ。
「ここが決め時だぜ。俺がレクチャーした通りに言やあ完璧だからな」
「……ホントかよう」
「ホントだよ。ほら、背ェ伸ばせ。頑張ってこい!」
目の前には【六番地食堂】のノレンがはためいていた。営業中なんだ。……そりゃ、そうか。
「い、行ってくる」
「おう」
キョータは僕の荷物を全部抱えると、にぱっと笑って、すぐにいなくなった。で、僕は一人で、からからと【六番地食堂】の扉を開けることになった。
 扉を開けると、すぐにカモメの笑顔が見えた。ちょっと気まずい感じはしたけれど、カモメの方が先に、微笑んで口を開いた。
 キョータが今日のために、二晩かかってカモメに取り成ししたという事実を、僕はずいぶん後で知ることになる。
「帰ったの? ケースケ」
「う、ん。またちょっとその、用事が、あってさ」
「いらっしゃい。注文は?」
いつも通りに僕の目の前に置かれた白磁の湯飲みの中には、いつも通り緑茶がたゆたっていた。でも、今日は、僕の心だけがいつも通りじゃない。僕はお茶を一口だけ飲むと、カモメをまっすぐに見た。言うなら、今しかない。
「か、カモメ」
「え……」
「聞こえなかった? 注文は、カモメ」
カモメは多少、呆気にとられていた。そりゃそうだろう、こんなコト言う奴、今時分そうそういない。僕も解ってはいたんだけど、キョータが『これくらい言ってやれば女ってのはオチるんだ』なんて言うから。あいつ、相変わらずロクなドラマ見てないな。
「……他に、注文は?」
言われて、今度は僕のほうが呆気にとられた。ここでカモメ以外に注文っていったら、ひとつしかないじゃないか。
「――塩サバ定食」
「承知」
カモメは厨房に下がっていった。その背中を見ながら、しまったなあ、失敗したかな――と僕は思った。今どきあんなセリフでドキンとする女なんかいるもんか。とりあえず塩サバ定食を食いながら考えよう。
 だけど、注文した塩サバ定食はなかなか出てこなかった。おかしいな、いつもよりかかる時間が長い。いつもならとっくに出てきてもおかしくないはずなんだけど……厨房内をよく見たらカモメの姿も見えない。なんか白いバサバサがときどき見えるくらいだ。まさかあのクサイセリフに呆れられたかな? でも、サバの焼ける匂いがじんわりしてきたということは、定食は作られているってことだ。
 よく解らん。しばらく待とう。


 定食はそれから十分後にできあがってきた。しかも、
「……カモメ……!!」
カモメは、僕の注文に完璧に答えていた。
「塩サバ定食と【あたし】。お待ちどう」
真っ白なウエディングドレスを着たカモメが、塩サバ定食の乗ったお盆を運んでくる。僕は飲みかけていたお茶を、た――――っと落とした。
「どうせキョータのアドバイスなんでしょう? 恥ずかしいプロポーズね」
「……ゴメン」
「いいの。受けたげる。ただし」
「ただし?」
「いつかはケースケの口から、ケースケの言葉でプロポーズしてよ?」
「……うん。約束する」
ぎゅ。柔らかいウエディングドレスの上から、僕はカモメを抱きしめた。そのまま、唇を重ねようと――したとき、
「よっしゃああああ! このまま結婚式やっちまおーぜ!」
「キョータ!?」
飛び込んできたのは、やっぱりというかなんというか、キョータだった。おじさんのなんだろう、少しだけ丈の足りない羽織袴を着て、満面の笑みを見せていた。……もう少し待ってくれればいいのに、デリカシーがないなあいつは。だけど、キョータは僕のそんな心の声なんかお構いなしに、一人で盛り上がっていた。
「おらっ、ケースケ! カモメ抱えろ、お姫様ダッコだお姫様ダッコ!」
「え……重いわよ、あたし!」
「バーカ! 海の男になろうって奴が女一人抱えられなくてどうすんだよ!」
「わ、解った! そりゃー!」
「きゃ……! ホントに抱えるの!?」
「あったりまえだ! 俺は先に行ってるぞ! みんなで待ってる!」
突然来て『抱えろ』とだけ命令して、キョータはとっとと駆け出してしまった。
「あいつう……」
「……ちょっと、ケースケ」
「え?」
「抱えられっぱなしなんだけど。あたし」
僕はちょっと考えた。
「いいや。このまま、カモメを抱えて外へ行く」
「で、でも……まだ定食食べてないじゃない!」
「大丈夫! 【六番地食堂】名物塩サバ定食は――――」
テーブルの上のお盆を、ちらと見る。サバはまだ少し湯気を立てていた。
「冷めても、美味しい」
僕はそして、カモメを抱えたまま、笑いながら海辺へ駆けていった。


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